電車

出井啓

電車

 真夜中、ぱちりと目が覚めた。時折明滅する街灯の明かりが、カーテンに遮られながらもぼんやりと入り込み、ぼやけた天井を映し出す。

 春先になってもまだ夜は冷え、布団の暖かさが幸せを運ぶのだが、そんな快適空間にいながらもまどろみは訪れなかった。頭の上を右手でまさぐり、スマートフォンをつかむ。側面のボタンを押すと、二時八分を表示した。

 朝ぎりぎりまで寝るようになると、それに合わせて夜更かしすることも多くなる。今日も1時まで起きていた。そのせいで普段は目覚ましが壊れているのかと疑うくらい起きない。なのにトイレに行きたいわけでもなく目覚めるなんて不思議だった。

 目が冴え、ぼんやり天井を見つめながら思考の海に沈む。静かな部屋の空気がのしかかり、深く深く沈んでいきそうな気がする。パチッとかすかな音を立てて暗闇が下りた。天井が黒く塗りつぶされる。とうとう街灯の寿命が切れたようだ。

 徐々に暗さに目が慣れ、月の輝きが増していくのを感じながら寝転んでいると、コトン、コトトン、とリズム良い音が聞こえてきた。耳を澄ませてみると、外から響いてくるように聞こえてくるようだ。寒さを我慢してのそりと体を起こし窓を開ける。待ちかまえていたかのように入り込む風に身震いしながら、辺りを見渡した。

 二階から見た景色は、月明かりの下でぼんやりと浮かび上がる向かいの住宅だけ。いつもと変わりないけれど、小さな音はやけにはっきりと聞こえた。

 枕元に置いている着替えから靴下を探り当て、厚めのジャンパーをハンガーから下ろす。とりあえず財布だけ突っ込むと、音をたてないようにドアを開けて廊下を見た。シンと言う音が聞こえそうなほど静かだ。バクバク動き出した心臓の音を聞きながら部屋を出て泥棒のように歩く。抜き足、差し足、忍び足。一段ごとにみしっみしっと鳴る階段にひやひやしながら下り、玄関にたどり着いた。学校に行く用のコートから鍵を取り出して、そっとドアを開けて外に出る。細心の注意を払ってドアを閉め、ゆっくり鍵を閉めるとミッション成功。小さく拳をつくり、よしっと呟いた。

 コトン、コトトン、コトン、コトトン

 私はそのリズムに誘われているかのように、ゆっくりと歩き出す。深夜に散歩をするなんて、普段なら絶対にしないようなことだ。けれど、心にあるのは高揚感。そして、隠し味のように混ざり混む緊張感と不安感。

 月明かりがスポットライト、響くリズムに合わせてスキップ、まるで自分が主人公になった気分。澄んだ空気を吸い込んで、淀んだ空気を吐き出して、体の中が綺麗になる気がする。

 分かれ道では耳をすまして、音の方へ踏み出す。はっきりしてくるリズム。左、右、まっすぐ、左。しっかり道を覚えておこう。

 やがて見えた少し大きな通り道には路面電車のような線路が敷かれていた。この線路を伝って聞こえるようだ。すぐそばにはバス停の目印のような物とベンチがある。こんなところに路面電車が通っているなんて聞いたことがない。

 コトン、コトトン、コトン、コトトン

 遠くで輝く丸いライトが、目に飛び込んでくる。その光景にある思い出がよみがえった。


 小学校低学年の頃、両親と旅行に行ったときのことだ。有名な夜桜の名所を見た帰り、プラットホームで電車を待っていた。暗闇をライトで照らしながら来る電車は新鮮で、昼間に見たときとは違う魅力があった。落ち着きがない私の手を両親が線路に近づかないようにと握りしめる。夜桜を見ることよりも、夜に外を出歩くことが、何とも大人に近づいた気分で嬉しかった。

 あれから十年も経っていないというのに、大きく変わってしまった。両親のどちらかと二人きりになったとき聞かれるのだ。もし、お母さんとお父さんが別々に暮らすことになったら、お母さんと暮らすよね? 父さんと暮らすよな? そんなの二人と暮らすのがいいに決まっている。でも、私はそんな問いかけに笑顔でもちろんと一言答える。無知な良い子を振る舞うのが辛くて、情けなくて、そんな自分が嫌いだった。あの幸せな日々は、プラットホームで私をつかんでいた手は、どこへ行ってしまったのだろう。


 駅に電車が止まり、フシューと息を吐き出す。焦げ茶色に金の装飾を施した電車が一両、穏やかな光を満たしていた。

 側面にドアはなく、見たことのない紋が描かれているだけだった。まわりを見てみると、後部に朱色の扉があり、そこからしか入れないようだ。その自分の身長ほど高い位置にある連結部分のスペースに登ろうとしたとき、リンと音が鳴り電車が動き始めた。あわてて飛びつき足をばたつかせながらよじ登る。無事扉の前に立ち振り返ったとき、なんだか家から遠ざかっていくことを感じさせた。

 このままどこか知らないところへ連れて行ってほしいと思った。ぎくしゃくした家庭も、それを見ることしかできない私もない場所へ。

 そっと銀のノブを回し、扉を押し開ける。そこに広がったのは土足で上がるのが申し訳なくなるような黄土色の絨毯や、窓際に並ぶ艶やかな赤い三人掛けソファー、運転席に続いているだろう朱色の扉、電車の中とは思えないような豪華な車両だった。

 乗客は一人も居ず、貸し切り状態なので、その中でも中央にある一番高級そうなソファーに腰を下ろす。やわらかく、そしてしっかりと体を支える感覚が伝わる。

 コトン、コトトン、コトン、コトトン

 電車は緩やかに進み、外の景色に明かりが少なくなっていく。手持無沙汰にソファーを撫でていると、朱色の扉がキィと開いた。びくっと震えて立ち上がり、入ってきた人の姿に茫然と立ち尽くした。

 それは大人二人が小さい子の手を繋いだ家族のような影だ。真っ黒な三人は楽しそうに私の前を通り過ぎ、車両の前の方に座った。子供がソファーの上で跳ねるのを母親がたしなめている。それを見ていた私は妬ましさを感じていた。昔の幸せな生活は胸にチクチク刺さる棘のようだ。


 ある旅行で初めてホテルに泊まった。それほど高級なところではなかったのだが、幼い私にはまるでお姫様になったかのような気分だった。煌びやかなラウンジ、細かい模様が描かれたカーペット、埋まるようなフカフカの椅子。部屋のベッドでトランポリンのように跳ねる私を、母親は呆れたように笑いながら注意した。

 それ以来、家族旅行では必ずホテルで宿泊するようになった。でも、そんな幸せな旅行に行けていたのも、いつまでだっただろうか。今では見る影もない。最近では家族そろって食事することも珍しいくらいだ。


 キューと電車が奇妙な叫び声をあげながら速度を落とした。カクンと体が前方にひかれ、隣の人に軽く肩が当たる。反射的にすみませんと謝ってから隣の席に影が座っていたことに気づいた。周りにも杖をついた老人や幅の広い帽子をかぶった婦人、相撲取りのように大きな体格の人などの影がソファーにゆったりと腰掛けていた。外は影のようにまっ黒に染まっていた。

 電車が完全に止まると皆立ち上がり朱色の扉を開けて出ていく。残ったのは最初に乗ってきた三人家族だった。子供が駄々をこねているようだ。

 私もその子くらいに幼かった時、歩きたくなくて道端に座り込んだことがあった。置いていこうとしても頑として動かなかったそうだ。そんなわがままな子が、今となっては静かに良い子のふりをするようになっている。私も変わったと今更ながら思った。

 父親らしき影が仕方なさそうに身をかがめ、子供は嬉しそうにその背に飛び乗った。荒んだ私の心は、そんなに元気なら自分で歩けよと思ってしまい、そんな自分に驚く。

 父親が私の前を通り過ぎる時、その背中の子供の影に口が浮かびニヤッと笑った。まるでチュシャ猫のように開く口は、私を嘲笑っていたのか、それとも励ましていたのか、ただ自慢げにしていただけなのか。私には判断できなかった。

 電車の前方の扉から背の高い車掌さんのような人が現れ、私に降りるようジェスチャーする。しかし、外は一寸先も見えないような暗闇で、降りてもどうしていいかわからない。知らない所に連れて行ってほしいとは言っても、これは想像の範囲を超えていた。

 ブンブンと大きく首を振っているとわかってもらえたのか、帽子を軽くあげると、そのまま通り過ぎて朱色の扉から出て行った。思わず扉に手を伸ばした時、リンとベルが鳴った。コトンと電車が動き始める。カクンと揺らされた体に当たるものはなかった。伸ばした手をゆっくりと下ろす。また、貸し切りの電車旅行が始まった。

 コトン、コトトン、コトン、コトトン

 子守唄のように心地よいリズムと緩やかな振れに、耐え難いほど瞼が重くなる。


 はっと目を覚ました時、自分の布団の中だった。あれは夢だったのか現実だったのか。

 ぼんやりと考えながら着替えてリビングに行く。父親は朝食を食べ、母親は料理をしていた。そこまで来て自分の失態に気づいた。

「あら、おはよう。今日は早いのね。起こされずに起きてくるなんて珍しいじゃない」

「おはよ。昨日は早く寝たからね」

 静かな食卓に笑顔を添える。今私はうまく笑えているだろうか。

「お父さんもおはよ」

「おはよう。朝会うなんて久しぶりだな。せっかくだから一緒に食べようか」

 久しぶりなのは、この空気に耐えられず、父親が仕事に行き、母親が起こしに来るまで部屋から出ないようにしているからだ。

「うん。そうする」

 母親がよそってくれたご飯を受け取りいただきますと言った。

「ちょっと話があるんだが、いいか?」

 鶏肉に伸ばしかけた箸が止まる。

「なに、かな?」

「この前の、もし父さんと母さんが別々に暮らすことになったらって話なんだが」

「朝からなんてこと言うの!」

 台所から振り向いてかみつく母親に見向きもしない父親。私はどうすることもできず、うつむいてしまう。

「父さんのとこに来てくれるって言ったよな。だから来月にでもそうしたいと思っているんだが、どうだ?」

 机に落とした影がニヤリと笑った。三日月のように開く口は私を嘲笑っているかのように見えた。そんなに私が可笑しいか。父親が優しげな口調で語りかける。

「急なことで混乱するかもしれないが、きっとすぐに慣れ……」

「嫌」

 うつむいたまま言葉を遮り、はっきりと答えた。もう三人仲良く暮らす事は出来ないのか。父親が固まり、母親がここぞとばかりに聞いてくる。

「そうよね。やっぱりお母さんと一緒に?」

「嫌」

 良い子ぶって笑顔でいようと何も変わらない。もうそんな演技はやめようと思った。机に映る影のニヤニヤ笑いは消えなかったが、もう嘲笑っているようには見えない。思いっきり机を叩いて立ち上がる。

「嫌に決まってるでしょ!」

 声をかけようとしていたのか、両親は私に手を伸ばそうとして止まっていた。届くことなく宙に浮いた手が、私を苦しめる。

「どうしてそんなこというの! どうしてそんなに仲が悪いの! いつから? どうして? どうして私を産んだの? こんな事になるなら生まれたくなかった!」

 じんじんと痛む手が小さく震える。机にこぼれた味噌汁がぴちゃっと床に落ちた。

「離婚するくらいならもう二度と私と会わないで!」

 茫然とする両親に言葉を叩きつけると、逃げるように部屋を出た。そのまま玄関に行き、ジャンパーを掴んで外に飛び出す。

 持っているものはジャンパーに入った鍵と財布だけ。でも、今さら戻れない。そのまま走って逃げた。

 これでよかったのか。これで何かが変わるのか。ぐるぐると同じ問いばかりを繰り返し、答えは出なかった。ただ、これからは徹底的に反抗してやると胸に誓った。

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