第1話 令和の時代からこんばんは
それは突然のことだった。
お風呂上がりに、パジャマ姿でちょっとテレビを見ていただけ。
別に不思議な風が吹いたとか、意味深な異常気象があったとか、意味ありげに季節外れの花が舞い落ちてきたとか、そんな予兆など何にもない。
特にいつもの変わらない日常の一コマ。
なんの気なしにテレビのチャンネルをかえようとしただけだった。
それだけだったのに。
毎日使っているリモコンを慣れた手つきで、たいしてボタンも見ずに押した、その瞬間。
――それでは設定画面に移行します。
テレビから機械的な抑揚が残る女性のAI音声のようなものが何かを言ったけれど、よく聞き取れなかった。
我が家のテレビに、”喋る“なんてハイテクな機能あっただろうか。
もう一度何か言いやしないか、と耳を澄ませながら、訝しい顔でテレビを睨むようにみつめてみる。
するとテレビは一瞬だけ暗くなった後、突然明るくなった画面に映し出されたのは、青い背景に膨大な量の並んだ英語や数列たち。
これには見覚えがあった。
かつて、実家で使っていた古いパソコンのエラー画面。
当時、あれやこれや頑張って打ち込んだレポートを保存しないうちに、突如この画面になった時はさすがに泣いた。
世の中ではブルースクリーンとも呼ばれているらしい。
最近ではあまり見かけなかったブルースクリーンとの思わぬ再会に、当時の絶望感が蘇りながら、このテレビを買った日のことを思い出していた。
そして、私しかいない一人暮らしの家で、誰に宛てたわけでもない言葉が、漏れ出る溜息とともに口から零れだす。
「このテレビ、別に安物じゃなかったんだけど。まだ壊れるには早くない?」
現実を受け入れきれなかった私は、手元のリモコンのチャンネルボタンや音量ボタンなど手当たり次第、適当に押してみた。
画面には一切変化はない。
無情にもただただ青い画面と画面いっぱいの英語やら記号やら、数列やらを写している。
その上、電源ボタンを押しても、リモコンの電池まで取り替えても、もううんともすんともしない。
「ダメだ……これ、完全に壊れたやつだ……保証期間って、もう切れたっけ?買った時のレシートと保証の紙……とりあえず明日にでも探すか……」
半ば投げやりになった私は、目の前のテレビ故障問題にさじを投げて、リモコンから手を放す。
本来ならば、保証書など期限があるものは、今すぐにでも探すべきなのだろう。
けれどこの時の私の心境は、もうなんかいろいろ疲れた、寝て全てなかったことにしたい、だった。
ひとまず私は、私の心に従い、寝ることにした。
現実逃避ではない。
誰に助けを求められるわけでもない、夜遅くの一人暮らし生活で起きた問題から、一時撤退しただけ。
疲れ果てた自身の心を守るための戦略的撤退だ、と自分に言い聞かせる。
「明日の朝、起きた時には直ってたらいいなぁ」
そんな淡い願望を抱きながら、歯を磨くため洗面所向かおうと、ソファから立ち上がった。
その瞬間。
突如、うんともすんとも言わなかったテレビ画面から、再び女性の機械的な声が何か聞こえてきた。
――かしこまりました。
「え?また何か言った?」
――あなたの
今度はしっかり聞き取れた。
そして、今、聞き取れた言葉の意味を理解しようと自身の口で復唱してみせた。
「あなたのしょうかんばしょをかくてーじゅりいたしました?」
どういう意味なのか、しっかりと聞き取れた上で何を言ってるのかわからなかった。
ただ“確定”とか、“受理”など重要なワードが出てきたのは薄っすらとわかって、
「何を確定って言った?受理って何を?ごめん、もう一回言って?」
その時の私はコンピューターウィルスとかバグとか、なんとか詐欺とかに怯えるあまり、テレビにお願いしだしていた。
すると、またテレビから機械的な女性の声が流れる。
願いが通じたかと思ったが、先程とは全然違うことを言い始めた。
――位置変更→異世界。
――国=
――時代変更→平安。
――時間変更→
――接続状況、良好。正常に起動準備中。
その言葉を言い終えたテレビは、ブゥンッ……とバイブするスマホのように小刻みに震えだす。
「なんて?今なんて言った?接続状況が良好ってことしか聞き取れなかった……けど、あれ?このテレビ、何かしようとしてない?」
――起動開始まであと1秒
「え?いちびょ」
未だまったくもって状況を理解できないままの私の言葉は、無情にも機械的な声に遮られた。
言い終えることもできず、間の抜けたようになってしまった私の言葉が、まさかこの世界での最後の言葉になろうとは。
そして私がこの世界で最後に聞いたのは、その私の言葉を遮ってまで告げられた言葉。
あっさりとしていて淡白で、感情も抑揚もない、機械音声が告げる。
――起動開始
瞬間、私の目の前が真っ白になる。
それは徐々に広がり、私の体だけでなく世界まるごと、白い光に呑み込まれていく感覚。
あまりの眩しさに思わず目を
瞑った
動くことも、悲鳴をあげることすらできず、私はそのまま立ちつくしていた。
少しの間、そのままだったけれど、少しずつ、少しずつ、徐々に強すぎた白さが収まっていく。
気づけば、目の前は真っ暗になった。
ほのかに香る匂いがなにかはわからない。
肌にあたる風がまるで外にいるようだった。
その時、私が目を瞑っていたことを思い出した。
家の中が今どうなってしまっているのだろう。
あの強い白い光はなんだったんだろう。
私は今、どうなってしまっているんだろう。
何もわからないまま、私は恐る恐る目を開いた。
「ちょっと待ってよ……」
自分でも、誰に待ってくれと言っているのかはわからない。
それでも口からついて出てしまった言葉。
私の目の前に広がっていた光景はおおよそ自分が想像したものではなかった。
「ここ……どこ……?」
自身の理解の
空は夕暮れ。
前に広がっているのは、私が生まれてから今日までの間、マンガやゲームなどでしか見たことのない町並み。
まだ沈みきっていない夕日が、私の近くに鬱蒼と伸びた木々を、そして、古典の教科書で見たことのある牛車や着物姿の人々を、低い建物ばかりでビルなど一切ない平安時代の町並みを、朱く染め上げている。
それなりに生きてきた私の人生の中では、マンガやゲームでしか見たことのないが、ここはまるで。
「平安京……みたい」
そんな平安の町並みを
「ここは
先程までの機械的な声とはまったく違う、血の通った男性の声に、私は
そこには、妖艶に映るほど優美に微笑んだ
その男性の装いは、やはりテレビやゲームでしか見たことない和服姿。
頭には
表情だけなら、穏やかな優しい笑みを浮かべているが、彼の瞳は、どこか私の行動を見極めようとしているようにも見えて、居心地はあまり良くない。
それでも、この理解の範疇を超えた、まったく状況が飲み込めないこの場で、言葉の通じる人間に会えたのは有り難いことだった。
「北山?」
「はい。
そう言った彼は、ニコリ、とそのただでさえ深いその笑みを、更に深いものにする。
“北山”というらしいこの場所の名前がわかっても、“宮“と呼ばれる場所から北にあるらしいということを教えてもらっても、自身が今置かれている状況はまったく掴めない。
隠すことができない不安に満ちた私の顔を、彼は見つめていた。
あまりに美しく、まっすぐに射抜くようにみつめてくる彼の視線から、思わず逃れるように身じろぐ。
この人に何かを問われても、私には何もわからない。
この場所のことも、自身の置かれている状況すらもわからない私に何も聞かないでくれ!と願いながら時間の経過を待った。
少しすると、彼が警戒を解くように軽く息を吐いてから、私から視線をはずす。
緊張から解放された私は、ひとまずの安堵に胸をなでおろしながら、彼の姿を目だけでとらえる。
彼は心配そうに眉を寄せ、困ったように辺りを見回してから呟く。
「なにやらこちらから大きな力の動きを感じて確認に来てみましたが、もう何も感じませんね」
そして未だ呆然とまだ立ち尽くしている私に、トンッ、と一歩だけ近づいて、気遣うように優しく微笑んだ。
その微笑みは、空恐ろしさや怪しさの色は一切なく、妖艶さと優美さだけを残したものだった。
彼は、甘く優しい声音で囁くように問いかけてきた。
「さて、不思議な
その問いは、自身が恐れていたものより優しく、どこか希望を感じさせてくれるものだった。
彼が、そんな優しい問いかけをしてくれたその瞬間。
自身も少し落ち着きを取り戻したのか、頭の中がクリアになっていた。
今私がいるこの世界のことは何もわからないが、今、自身が置かれているこの状況は、はっきりと私の目に見えている。
困っている。
確かに今とても。
家でテレビ見てただけなのに、今は鬱蒼とした山にいる。
こんな見たこともない場所で、時刻は夕暮れ、もうすぐ夜になる。
今まで見てきた俳優やアイドルなんて比べようもないくらいのイケメンの前なのに、今の私はお風呂上がり、すっぴんのパジャマ姿だし。
もうなんかいろいろ絶望的な状況ということだけは、わかる。
これはどういう状況なんだろう。
巷で流行っている異世界転生とかでも、もう少しチュートリアル的な状況説明がされているはずだ。
そして、転生なんて言われても、ここに来る直前、決して死ぬような状況ではなかったと思い返してみる。
思い返す中で、最初に私が聞き取れた言葉を思い出す。
聞き取れたといっても、正確には言葉をそのまま復唱しただけで、意味をなしていなかったテレビの声が、今はきちんと意味のある言葉となっていく。
あなたのしょうかんばしょをかくてーじゅりいたしました
あなたの召喚場所を確定、受理いたしました
あのテレビ、その後も、なんか長々と言っていたけれど、そういえば異世界とか平安とか言ってた気がする。
――異世界、召喚?
いやいや、どう考えても現実的じゃない。
夢なら醒めてほしい。
――どうしてここに連れてこられたの?
――これからどうしたらいい?
――どうやったら家に帰れる?
――この状況のクリア条件は何?
頭を悩ませる問題は山積みだけれど、ひとまず何よりも解決しなくてはいけない問題は一つ。
ザワザワと夜風に揺らされる木々の音や、電灯のない夜道に広がる闇に背を押され、私は彼の問いに答えた。
「めっちゃ困ってます。家に帰れない、帰り方もわからない。こんなわけのわからない場所で野宿はマジ勘弁です。人生迷子状態です。拾ってください」
無理難題で目茶苦茶なことを言っている自覚は多少あったが、ここに一人で置いていかれたくない一心で言い切る。
息つく暇もなく畳みかけるように訴えた私を見た彼は、少し驚いたように目をパチクリさせてから、ふふっ、と目元を和らげ、
その微笑みは、先程までのどの微笑みよりも優しく、とてもあたたかいものだった。
彼は私をまっすぐみつめながら、甘く優しい声音で囁く。
「おやおや、少し山に
彼は優しい笑みを浮かべたまま、ゆっくりと手を私にさしだした。
彼は私の手を握りしめながら、空を見上げ、辺りを見やってから、穏やかに言った。
「何はともあれ、もうすぐ夜になりますね。夜の山は危ない。私の屋敷においでなさい。そこでゆっくりお話をしましょう」
彼はそう一言、口にしたところで少し
「そうだ。今回は私だったから良かったですけれど、お嬢さん?おいそれと
強い口調ではないが有無言わせぬ彼の物言いに、私の本能が逆らってはいけないと告げる。
本能からの忠告に従って、私は素直にコクコクと頷いた。
彼はそんな私を見て、満足そうに微笑むと、歩きだす。
私の手をぎゅっと握ってくれている彼の手のあたたかさに安堵をおぼえながら、私は手を引かれるまま、彼の後ろを大人しくついていくことにした。
この人の家ってここから遠いのだろうか。
歩き始めて数歩、ふと何気なくそう思った時。
「着きましたよ?中へどうぞ」
まだ数歩しか歩いてない。
その声に驚いて前を見ると、光景は一変していた。
私の目の前には、立派なお屋敷があった。
驚いて辺りを見回してみると、少し離れたところには鮮やかな朱色に塗られた橋があるだけで、私の近くには、山はおろか木の一本も見えない。
橋の奥には、先程山の上から見ていた平安の町並みが広がっている。
今の今まで山の中だったはずなのに、現在、私が立っているこの場所は、誰がどう見ても山の中ではない。
先程、山の上から一望していた平安時代の町並みの中に自分がいた。
この異世界に来た時と同じ様な不思議な状況に、私は混乱しながら、キョロキョロと辺りを見回す。
そんな私を見た彼は、申し訳無さそうに眉尻をさげて、困ったように笑った。
「私、陰陽師でして。驚かしてしまったなら申し訳ありませんでした」
その言葉とともに、彼は屋敷の戸を開く。
テレビで見たことのある陰陽師っぽい格好だと思っていたけれど、本当に陰陽師なのか。
陰陽師ならそういうこともあるのかもと、なんとなく納得してしまった。
彼に促されるままに、屋敷に入ると、屋敷の中も、まさに昔の日本の御屋敷そのものだった。
それこそ平安時代を舞台としたドラマや映画のロケ地にでも来ている心地だ。
そんなことを考えている間に、彼があたたかいお茶を出してくれたので、お礼を言って口に運ぶ。
思ったよりも乾いていた喉を、ほどよく温かいお茶が優しく潤してくれた。
「さて、お嬢さん。それでは少しお話をしましょうか。貴女のことを話せる範囲で教えていただけますか?」
彼にそう言われて、信じてもらえないかもしれないが、今の自分の状況を全て話した。
彼はそれに何度も頷きながら、しっかり話を聞いてくれた。
決して疑ったり、馬鹿にするような素振りはなく、時に考え込むような仕草をしながら、支離滅裂になる私の言葉を遮ることなく聞く。
そして、私の話が終わった後、暫し考え込んで彼は、
「おそらくその女性の言った言葉が全てなのかもしれません。ここは貴女の世界ではなく、時代も違う場所。あなたは何らかの事故か、誰かの
そして彼は申し訳なさそうに言葉を続けた。
「申し訳ありません。今の私には貴女をお家に帰してあげられる力はありませんね。手がかりがあまりにも少なすぎる」
私は小さく首を横に振った。
彼はそんな私を見て、少し困ったように笑って言った。
「それでも、貴女を拾ったのは私。私には貴女を助ける義務があります。今すぐにお家に帰すことはできませんが、この世界で生きていく上で必要なことは私におまかせください」
彼の優しく心強い言葉に、私は少し泣きそうになった。
自身が思っているよりも、私の心は疲弊していたらしい。
この世界に降り立った時は、どうしたらいいかわからないまま、立ち尽くしていた。
彼は成り行きで家に招いてくれたけれど、私の支離滅裂な話を聞いて、面倒事だと思われても当然、そのまま一人放り出されても仕方ない、とどこか覚悟していた。
「あ……り……ありがとう……ございますっ!」
お茶で潤ったはずなのに、私の喉からこぼれる声は途切れ途切れで、詰まったようになる。
ちゃんとお礼を言いたいのに、安堵の気持ちが先走り、それ以上、言葉にならない。
涙がこぼれてしまいそうで前を向けず、俯きながら、声を絞り出すように言った私の頭を、彼は優しく撫でながら微笑った。
「私は
聞いたことのある名前に、泣きそうなのも忘れて、顔を上げて彼をみつめてしまう。
私の顔を見た彼は驚いたように、ほんの少し目を大きく開いてから、着物の袖で私の目元を優しく拭ってくれた。
そして私の心が落ち着くまで、たわいない話を続けてくれていた。
私が落ち着きを取り戻し、これからの話をしていく中で、彼は真剣な面持ちで、声音を少し硬くして言った。
「ただ、私から一つお願いがあります。お嬢さん、私が貴女を守るにあたって、一番近くで守れるのは私の弟子になることなんです」
彼の言葉の続きを待っていると、彼は言いにくそうにしながら言葉を続けた。
「けれど基本、陰陽師は男しかなりません。陰陽師に限らず、貴族も武士も役職は基本全て男です。
「私が男のふりをして、なりたての陰陽師として、師匠のそばにいればいいってことですかね?」
私がそう言うと
「し、師匠ですか!?いや、大きな声をだしてすみません。呼ばれたことがなかったので驚いてしまって。……そうですね。そういうことです。貴女はそれでいいですか?」
彼は少し咳払いをしてから、
私が強く頷くと、彼は優しい笑みを深くした。
そして少し照れたように笑いながら、彼ははにかむように囁く。
「……私は今とても嬉しいですよ。
私も嬉しくて、彼の瞳をまっすぐみつめながら微笑み返した。
こうして私は稀代の陰陽師、安倍晴明の愛弟子になったのです。
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