第4話 ハッピーホテル
翌日、二人は退屈だがゆったりとした一日を過ごせた。更にその翌日、
ここからが二人の活動開始だ。二人は各々「北へ!」と黒で縁取りをした蛍光ピンクで大書きした白いボードを持って、国道の車が止まりやすそうな場所を見つけて待機する。そして車が来るたびにボードを掲げて時には飛び跳ねアピールするのだ。それとマスクも外しておいた方が印象はよいようだ。顔を見てから停めようかどうか考えるだなんて本当に気持ち悪い。
この日は巡り合わせが悪かった。なかなか車が停まってくれない。停まって乗せてくれても一駅か二駅分程度の距離しか進めない。それでも二人はめげずにボードを掲げ続けた。そして夕方の五時半、もう夕闇が迫ろうかという頃、救い主のようにその車は現れた。
ガタついたシルバーの4WD車が停まった瞬間凪沙には嫌な予感が走る。車窓の向こう側の顔に実に嫌なものを感じたからだ。
年の頃六十そこそこ。脂ぎった顔で嫌らしいにやにや笑いを浮かべている。美味そうな菓子を見つけた飢えた悪童のようだった。
それでも実際に話してみなければわからない。そう思い直すと凪沙はドアのウィンドウを開けた男に努めて明るく話しかけた。
「こんばんは! 停めて下さってありがとうございます! 実はわたしたち茨城の大洗まで行こうとしてるんです」
「へえ大洗。行くよ」
「えっ、本当ですか!」
凪沙と
「さっ、いいから乗んな。寒いだろうよ」
乗るよう促されたが凪沙の中ではさっきから警報が鳴りっぱなしだった。が、背に腹は代えられない。いざとなればこんなキモデブ二人掛かりでボコればいい。凪沙は腹を括った。
「ありがとうございますぅ」
ばかみたいに明るくいかにも頭が足りない風を装って凪沙は後部座席に乗り込む。精々油断させてやれ、その方がずっとやり易い。
男にやにや笑いながら車を発車させると凪沙に訊いた。
「で? なんで大洗なんかに?」
「えとお、本場のあんこう鍋が食べたかったからかな、なんてっ」
こいつには本当のことなんてかけらも話したくない。
「えっ、食べた事ないの?」
「そうなんですよぉ」
「おじさんならもっといいもん食べさせてやれるんだけどさあ」
早速きたか? 微妙な線で様子を見ようと言うのか? 凪沙は心の中で特大の舌打ちをした。
「へえそうなんですかぁ、でもわたしらお鍋の方がいいかなぁ」
「それに本場じゃなくて本番の」
男はこの下卑た駄洒落がいたく気にいったようでふごっと鼻を鳴らした。
こいつは相当なのに当たっちゃったみたいだ、と今度は本当にため息を吐く。隣の
このあと男の下ネタ独演会が延々と一時間以上続いた。愛想笑いを続ける凪沙と
もうどれくらい進んだろうか。次の街の明かりが見え始めた頃だ。男が切り出す。
「なあなあ、まだ道のり遠いんだからさあ、今日はこの辺りで泊まってかなあい。ホテル行こうよホテル」
ここらが潮時だな。凪沙が
「ねえねえ、ホテルってもさあ、『ラブホテル』って言うの知ってる?」
「さ、さあ、聞いたことくらいはありますけど……」
引きつった表情の凪沙の顔はもう笑っていなかった。
「じゃあさ、一度見てみようよ。結構きれいなんだよこれがあ」
男は鼻をふごふご鳴らして興奮気味に一人喋る。
その時凪沙のスマホが鳴動した。
「あっ、すいませえん。父から電話みたいで」
凪沙は相変わらずの馴れ馴れしい声で男の下ネタを制し電話に出る。
「あっ、もしもし、お父さん? えっあーうん、今親切な男の方に車乗せてもらっててえ、えっ良い人だよ」
話を遮られた男は不機嫌そうな顔になる。
「えっ、話がしたいの? えーっ、走行中の通話は法律違反でしょっ、もお、お父さん警察官なのにだめじゃあん。法律はちゃんと守りましょ、ねっ、ちゃんとっ、神奈川県警刑事一課長さんっ。えーっ、そんなに気になるの? じゃ聞いてみるね」
凪沙はあり得ないくらい明るい顔を男に向け尋ねる。
「あのお、うちの父がぜひともお話したいって言っているんですけれど、どうされます?」
「けっ、結構、ですっ」
男は顔も声も引きつっていた
「ですって。んっ? 今どこにって? あのお、今どこですか?」
「もうすぐ新横浜ですっ」
「新横浜ですって。えっ、今すぐそばなんだ! 奇遇! じゃあ駅前で待ち合わせようか。うんうん。あの、運転手さん神横浜駅のロータリーにつけていただければいいのでお願いできますかあ?」
「はいっ」
男は従順に凪沙に従った。
新横浜駅のロータリーを降りる段になると二人は愛想笑いの一つも浮かべずに踵を返して車に背を向ける。車は逃げるように走り去っていった。
「小心者でほんと助かったわねえ……」
「後ろ暗いことがなきゃあんなビビんないんだよ。けっ、死ねクソがっ」
と凪沙は吐き捨てた。だがすぐに思い直す。
「うん、しかし、ま、トラブった割には進んだね。裾野から横浜ならまあまあなんじゃない?」
「そうね。でもこの辺宿代高いわよきっと。どうする?」
「いいじゃん、ラブホ行けば」
「まあっ、
愛玲奈はわざとらしく驚いたふりをする。
「何言ってんの、ねんねじゃあるまいし。さ、ほら行こ」
「でもラブホでも高いんじゃない?」
「んん、まあその時はその時でどっかネカフェでも探すしかないね」
「こういうところのってあのおじさんが言ってたみたいにとってもきれいらしいじゃない。私楽しみ。この駅だってとってもきれいだし」
都会らしい街明かりの毒気にやられたのか、いつになくはしゃぐ
「あ、そういや都会じゃ『ハピホテ』って言うらしいよ」
はしゃぐ
「はぴほて?」
「ハッピーホテル」
「ふふっ、やっぱり都会は違うなあ。なんだか本当にハッピーになれそう。ねえ、急ぎましょうよ」
珍しく気を昂らせながら二人は宿泊地を探し夜の都会へ消えていく。天上には星々とビルの明かりが煌めき二人を照らしていた。
◆次回 第5話 無情
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