第5話 無情

 翌日。十一月の小春日和の中、凪沙なぎさ愛玲奈あれなはわずか二十分で大洗行きの車をゲットした。意外なことに二十五、六の若いカップルだった。二人の左手の薬指にはプラチナのリングがあって、夫がプロポーズした記念日の今日、初デートをした大洗へ向かうのだと言う。


「えっ、そんな、私たちむしろお邪魔じゃないですかね」


 凪沙は努めて明るく親しげに振る舞いながらも、二人の薬指にはまっているものを観るのは辛い。自分たちでは堂々とそんなことはできない。


「いいんだ、せっかくの記念日なんだしさ、賑やかな方がむしろ楽しいよ」


 眼鏡をかけた誠実だけが取り柄そうな夫が楽し気にそう言うと、笑顔の明るい妻は幾度も強く頷いた。

 凪沙と愛玲奈がこの車に乗り込んでからというもの四人はまるで旧知の仲であるかのように会話に花を咲かせた。引っ込み思案で臆病な愛玲奈あれなでさえも楽しそうに会話の輪に入ってくる。夫の孝史曰く、花が咲いたようだ、と。そんな中で二人は虚実綯交ぜの話を繰り広げた。途轍もない田舎の村から出てきたこと。大学の授業の合間を縫って記念旅行に挑戦していること。中一からの仲良しであること。凪沙は貧困家庭の元ヤングケアラーで、愛玲奈あれなは地元で知らぬものとてない名家の子女だと言うこと。

 渋滞らしい渋滞にも巻き込まれず、四人を乗せた車は三時間強で大洗にたどり着いた。


「じゃあどこかそこら辺にでも下ろしていただければ結構ですので……」


 と凪沙が切り出すと、夫婦はきょとんとした顔になる。


「下ろすって?」


「観光はしてかないの?」


 今度は凪沙と愛玲奈がきょとんとする番だった。


「えっ観光って……」


「ご一緒に、ですか?」


 妻がひと際明るく大きな声で言った。


「もちろん! だってもう私たちお友達でしょう?」


 凪沙と愛玲奈あれなは一瞬顔を見合わせたが、フェリーの出港までまだ時間もある。この夫婦になら少しくらい甘えても構わないだろうと肩の力を抜き頷いた。

 四人はまず水族館へ行った。イルカショーに歓声をあげたり、VRのサメに思わず逃げ惑ったり、様々なサメの標本をしげしげと眺めてまるで自分も研究家になった気分に浸ったり、水中を泳ぐ鳥に眼を剥いたり、水中でのんびり浮いているマンボウを眺めて自分までのんびりした気分になったり。中でも愛玲奈あれなは地味な淡水魚の「森と川ゾーン」がいたく気に入ったようだ。水源地から河口の汽水域にわたって幅広く生息する地味な魚が展示されている。上流から河口まで何往復もする愛玲奈あれなを見ながら、地味な愛玲奈あれなだから地味な魚が気に入ったのだろうかなどと凪沙は失礼なことを考えてしまった。昼食は館内のカレー&パスタショップで食べる。

 水族館を出ると海水浴場に向かう。もっとも今は閉鎖されているので眺めるだけだ。

 海岸に着くと妻の美乃里はすぐに駆け出して行って波と追いかけっこを始めた。それを追って愛玲奈あれなもかけ出していく。消極的な愛玲奈あれなにしては珍しいことだ。愛玲奈あれなはすっかり美乃里に懐いていた。

 砂浜の上に座って胡坐あぐらをかいて煙草を吸いたい気持ちを懸命にこらえていると隣に孝史が座ってきた。凪沙は敢えて胡坐を崩さず座り続けた。


「これ、どうぞ」


 孝史が差し出してきたのはブラックの缶コーヒーだった。なぜ孝史は自分のコーヒーの好みまで知っているんだろうか。いぶかる凪沙に孝史は苦笑いをする。


「おごりです。貸し借りなしで。おいやですか」


 こういうことにすぐむきになる自分が少し恥ずかしくなった。凪沙は目礼だけして缶コーヒーを受け取ると封を開けた。孝史は凪沙のパーソナルスペースから遥かに離れた場所に座る。こういう時の男ってすぐ隣に座りたがるものだと思っていたので凪沙は少し驚いた。


 しばらく沈黙が続く。さっきまでのはしゃぎようとは雲泥の差だ。向こうでは午後の陽光に照らされた美乃里と愛玲奈あれなが波打ち際で走り回っている。波がキラキラと黄金に輝いて二人に光を浴びせかけている。


「ステージ4なんだ」


「は?」


 孝史の聞こえるか聞こえないかの呟きが凪沙には理解できなかった。言っている意味が全く判らない。ステージ4って何の? そして誰が? 誰か二人の家族か何かが?


「あいつ、肝臓がんの、ステージ4なんだ……」


「えっ、えっだって、だってあんなに、あんなに元気なのにっ?」


「あと五ヶ月だって」


「五ヶ月って……」


 もう次の夏まで持たないのか。


 小春日和の陽の光を浴びて元気そのものに駆けまわる美乃里、そして愛玲奈あれな。死のかげを身にまとった二人は午後の穏やかな陽光を浴びて朗らかに踊っていた。


「美乃里が…… 美乃里が一体何をしたっ!」


 両手を握り締め俯き、絞り出すように怨嗟えんさの念を吐き出す。孝史の足元の砂浜に幾粒もの水滴が落ちる。泣き震え砂浜に涙をこぼす孝史を見て凪沙は思う。そう、何もしていない。何もしていないんだ。悪いことなんて何ひとつしちゃいない。だけど理不尽で無情な運命の糸に絡めとられ、奈落の底へと引きり込まれる、そんな人間は確かにいる。惹かれ合い逃亡を続けるわたしたちのように。凪沙には孝史にかける言葉がなかった。


◆次回 第6話 笑顔の裏側

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