深夜の散歩で起きた出来事

帆尊歩

第1話 残された想い

右には、壁に囲まれた墓地が見える。

あたしは、こんな住宅地の真ん中に墓地があるということが信じられずにいる。

誰も歩いていないその横の道は、ひどく寂しくて、あたしはちょっと不安になる。

ここは、あたしが良く知っていた場所の近くだということはわかる。

でもこの道は初めてだったし、もう夜になっている。


そういえば、あたしはなぜこんなところを歩いているのだろう。

深夜の散歩?

そうだ、あたしはバスに乗ろうと、バス通りまで出てゆこうとしていた。

それだけは分かる。

深夜なのに、バス?


周りの住宅からは、生活の気配が全くしない。

まるで、巨大な夜の住宅展示場を歩いているような怖さがある。

闇の中に、ところどころ街灯があり、その回りだけ明るくなっている。

でも、むしろあたしはその明かりが怖い。

暗ければ見なくていいものが見えそうで恐かった。

バス通りまでは、そんなに距離はないはずだということは分かっている。


ふと暗い路地の先が、街灯のせいで明るくなっている。

そこはT字路で、突き当たりのブロック塀が街灯に照らされて、はっきりとコンクリートの接ぎ目までがわかる。

あたしはそこに誰か居るような感じがしてしかたない。

いえ、いるはずよ。

この気配は、どこかで感じたことがある。

いつもあたしを見つめている気配。

でも、けして嫌なものじゃない。

「だれ?そこに居るのは?」

あたしは思わず声をかけてみる。

でも返事はない。

あたしは小走りでそこまで行ってみる。

そして、路地に立ったとき、そこには誰もいなかった。

ただそこにあるのは、今あたしが来たと同じような道が続くばかり。

あたしは仕方なく、バスに乗るために道に戻る。

でも、絶対にあたしは誰かに見られていた。

それは確信できる。


あたしはやっとバス通りに出ることができた。

その少し賑やかな道に出て、あたしは不思議な不安から解放された。

そして、この道も知っている。

ここは、あたしが通っていた学校へと続く道。

あたしは学校に行こうとしていたの?

そんなことはあるはずない。

だってあたしが学校を出たのは、もう随分前のことよ、今さら。

そう考えながら、あたしはバス停に並ぶ。

あたしの他は、誰もいない。

夜・・・だから。

そういえば、あたしはブレザーを着て、胸元にはリボンが付いている。

そう、これはあたしの高校の制服、左手にはフルートのケースが握られている。

この重さからいくと、フルートは中に入っている。

そのうちバスが来た。

あたしは開いたドアから乗り込む。

車内には結構人が乗っていて、賑やかだった。

そこであたしは、前の方の席に座ると、他の客を眺めた。

老婆。

三人のはしゃぐ子供を連れた主婦のような人。

背広を着た紳士。

芸能人ぽい女性。

不思議なことにみんな綺麗なよそゆきの服を着ている。

まるで、旅行にでも行くような。

あたしは、どこかこの人たちを知っているような気がして仕方がない。

そして、バスが走り出した。


自分が寝ていることが認識出来る。

いつの間にか寝てしまったようだ。

子供のはしゃぐ声が、自然に耳に入ってくる。

あたしは夢を見た。

あたしは飛行機の客室乗務員で、今バスの中にいる人達がお客、あたしはこの人達を接客している。

どういうわけか異様に現実味がある。

まるでそれが現実で、今こうしてあたしがバスに乗っていることの方が夢のように。


子供達のはしゃぐ声が、段々大きくなる。

段々あたしもイライラしてきて、大声で叫ぼうとして、ふと目が覚めた。

そして、そこにあるのは不思議な静けさ、驚いたようにあたしがバスの中を見渡すと、もう誰も乗っていない。

薄暗い車内灯が、ところどころに光をあてている。

なんだか急に寂しくなって、あたしはバスの外を見た。

そこは夜の街ではなく、上も下もない真っ暗な空間。

あたしは持っていたフルートのケースの柄を堅く握りしめた。

すると運転手さんが、

「次は星稜、星稜」

とアナウスをする。



星稜、それはあたしの高校の中庭にある像の名前だ。

あたしは急いで、バスの外を見る。

するとそこには、夜の闇の中に、大きな丘がぷっかり浮いている。

そこだけが昼のように明るくて。

夜の闇とのコントラストで、さらに明るく見える。

そしてそこからちょっと離れたところに、やはりぷっかりバス停だけが浮いている。

バスは音もなくそのバス停に止まると、バスはドアを開けた。

あたしは降りてみる。

するとバスは、また音もなく走り出して行った。

バスの後ろ姿も、まるで夜の海に浮かんで見える。

星稜の丘は、ちょうどバス通り一本分の夜の海を隔てたところに浮かんでいた。

まるで、宇宙空間に浮かんでいるようだ。

丘とバス停の間なので、足を踏み入れたらそのままどことも知れない、夜の底に落ちてゆくんじゃないかと思えて仕方がない。

それでも、気がつくとあたしはその夜の川に足を踏み入れた。

足がくるぶしくらいまで沈んで止まる。

その度に、水しぶきの代わりに星粒が舞う。

丘には、遅刻坂と言うコンクリートの坂道があり、あたしはそこを登ってゆく。

短い草が丘全体に生えている。

裸足になったら、とても気持ちがいいだろうなと思った。

丘の周りは夜の空間で、丘の上は昼間のように明るいけれど、空には星が見える。


あたしはこの星稜の丘を歩いて回った。

こんな風景は見たことがない。

でも不思議。

ここがとても懐かしく感じられる。

まるで家に帰って来たみたい。

そう、ここはあたしの高校のはずだから。

 

しばらくすると、誰かが座っていることに気付く。

男の子?

誰、あなたは。

と言おうとして言葉を飲み込んだ。

知っている、あたしはこの人を知っている。

膝を抱えて草原に座っている。

ピクッと動くと、あたしに気付いたようにゆっくり立ち上がり、あたしの方を振り向いた。

知っている、あなたのことを、あたしは知っている。

でも、名前が出てこない。

あなたは驚いたように、あたしを見つめる。

「・・・・・・さん」良く聞き取れなかった。

でも、あなたはあたしの名前を言った。

そう、なぜだかそれだけは分かる。

あたしはゆっくりとうなづく。

あなたは、嬉しそうに微笑んだ。

待ってこの感覚、どこかで感じたことがある。

いつも無意識のうちに感じていた。

それでいて、決して不快なものではないこの感覚。

「あなたはさっき、住宅街のT字路であたしを見つめていたでしょう」

あなたは歯にかんだように、首をすくめると優しくうなずいた。

「どうして、どうして声を掛けてくれなかったの」

「君が、どこにいるか分からなかったから。きっとそこで、君が僕の視線を感じたなら、それは僕が君に逢いたいって気持ちが伝わったことだよ」

「たしかに、路地には誰もいなかったわ」

「僕は、いつもここにいた」あなたは寂しそうに言う。

「どうして、あなたがこの星稜の丘にいるの」そんなことは分かっていた。

でも、敢えてあたしはその質問をあなたにしてみた。

「君のことが好きだったから」

「・・・・・」あたしは何も言えなかった。

「僕がこの星稜の丘にやってきたのは、まだ君が高校生の頃だった。

そのころは、まだこの丘は大きな木や草がいっぱい繁っていて、いつでも君を僕から隠していた。

僕は木の陰から、君を見つめてきた。

でも、やがて君は手をまっすぐ頭の上に向けて、星を掴もうとして、どこかの星を掴んでこの丘を出て行ってしまった。

僕は、君の掴んだ星がどれなのか分からなくて。

だから君が最後にいたこの丘で、君を感じるしかなかったんだ」

「それじゃあ、あなたはずっとここにいたの」

「そうだよ、少なくとも僕の君への『想い』は、ここから動いていない」

「あたしが帰ってくるのを、待っていたの」

「いや、もう君はここには帰ってこないと思っていた。でもなぜか君はここにいる。不思議だね」と言って、またあなたは微笑んだ。

そしてあなたは、あたしの手を取って、草の上に座ろうとする。

あたしは、あなたに従う。

「あなたは、全然変わらないのね」あたしが言うと、あなたは面白そうにあたしの顔を覗き込んで笑った。

「君だって変わっていないよ。高校の制服を着ているくらいだもの」そう言われて思い出した。

あたしは高校生になっているんだ。

「君がいなくなってからね、この丘は僕にとても優しくなった。

昔は大きな木だけじゃなく、ゴツゴツした岩まであって、君を探すのも一苦労で、見つけても、あとが追えないんだ。

ところが、君がいなくなったことが分かった途端、こんなに綺麗で気持ち良い草原になっちゃった」

そんなあなたの言葉を考えてみる。

あたしはこの丘を見たことはない。

ただ、ここがあたしの高校であることが分かるだけ。

あの時も居心地が悪い場所ではなかった。

「でも、あたしにとってここは、気持ちが良い所だったわよ」

「それじゃあ、僕にだけに意地悪していたのかな」

「そうかもね」と言って、あたしは笑った。

あなたも少し微笑んだ。

「いつも僕は、君のフルートを聴きにここに来ていた。でも、君のフルートはなかなか聴けなかった。

フルートが聴きたいな。

僕のためにだけ吹いてほしい」そうあなたは言う。

だから、あたしはすぐにそれに応じた。

あたしは、持っていたケースを開けると、フルートをつなげた。

そして立ち上がる。

「それじゃあ、吹くわね」そう言って、吹き始めた。

でも、上手に吹けない。

確かに、大学ではクラブには入らなかったけれど、少しは吹いていたし、社会人になってからだって少しは、だからもう少し上手なはずだった。

そして、あたしは一つのことに気付いた。

今のあたしは高校生なのだ。

でも、あなたは嬉しそうに聴いてくれる。

あたしのフルートが、人に喜んでもらえることが嬉しかった。

 随分長い間そんな時間が続き、あたしがフルートから口を離すと、あなたは力いっぱい拍手してくれた。

「あたし、フルートを吹いて、こんなに拍手してもらったのは初めてよ」

「そんなことはないよ、僕はいつでも君のためにだけに力いっぱい拍手をしていたよ」

「本当に」あたしはなんだか嬉しくなって、あなたに聞き返した。

「もちろん」あなたは、力いっぱいうなずいてくれる。


夜の海の遠くの方に、何かが浮かんでいる。

バスだ。途端、あたしはあれに乗らなければならないと、思い出す。

「あたし行かなくちゃあ」あなたの顔が少し曇った。

「もう行っちゃうの」

「また来るわ」あたしは明るく言った。

「いや、君はもうこの星稜の丘にやって来ることはないよ」あなたは寂しそうに言う。

あたしはそれがどうしてなのか分からない。

「どうして、あたしはまた、ここに来たいわ」

「君は、本当はここに来れない人なんだ。なのに君はここにいる。きっと君はもうここには来れない。だからいつまでも僕とここにいよう」

「それはだめ」あたしは首を振る。

「どうして」

「どうしてだかは分からないけれど、あたしはここには居られないの」あたしはゆっくり遅刻坂のほうに向かって行く。

あなたはあたしの横を歩いている。

あなたがあたしを見つめる目は、あたしの心に突き刺さる。

どうして、あたしはこの視線に気付かなかったのだろうと考える。

「それじゃあ」あたしはあなたに向かって、手を上げて軽く首をすくめる。

そう、これがいつものあなたに逢ったときの挨拶のしかた。

「じゃあね」あなたも手を上げる。

そしてあたしは振り向くと、遅刻坂を小走りで下っていった。

夜の川では、来たとき以上の星があたしの足元で舞った。

「待って」夜の海を隔てあなたが叫ぶ。

「えっ」

「僕も。僕も君と一緒に行く」

あたしは嬉しくなって、大きくうなずいた。


あたし達が、バス停に着く頃、バスはまた音もなく入ってきた。

あたし達がバスに乗ると、やはり誰も乗っていなくて、バスの中は静まり返っていた。

でも、あたしは上機嫌だった。

だって、一人じゃないから。

あたし達は、一番後ろの席に並んで座った。

あたしは、あなたと一緒にどこかに行けることが嬉しくてたまらない。

「お客様、本日は当バスをご利用頂き、誠にありがとうございます」あたしは、冗談でそんなことを言い出した。

どうして、こんなにすらすら出てくるのだろう。

あなたは、楽しそうに笑っている。

「当バスは、これより」と、ここまで言ってあたしは、この次にこのバスがどこに行くのか、知らないことに気付いた。

あたしは席を立つと、一番前の運転手さんのところへ歩いて行った。

「運転手さん、次はどこですか」あたしは、気軽に尋ねた。

「お客さん、もう終わりですよ。この旅も、もう終わりなんですよ」

「どういうこと?」そうあたしが言うと、運転手さんが暗い運転席から、こちらの方に振り向いた。

そして、その顔はあなた。

ずっとずっと大人のあなたの顔。

そして、あたしも高校生ではない。

大人のあたし。

胸だって、お尻だって大きい。

あたし、何かの制服を着ている。

あたしは驚いて、あなたの座っているはずの一番後ろの席を見た。

いない、あなたがいない。

あたしは慌てて、あなたがいた一番後ろの席に戻る。

そこには、色褪せたガリ板で印刷した藁半紙の詩集だけが置いてあった。

もう、ボロボロになっている。

これは、小学生の頃クラスで作った詩集。

男の子は男の子同士、女の子は女の子同士で、二部づつ作って、一部を出席番号順に、男の子と女の子で交換すれば、男女一部づつがみんなの手に回ることになる。

これはあたしが作って、あなたと交換した。

詩集。

左上が少し切れて、貼ったセロハンテープが色褪せて残っている。

あたしは、また急いで運転手さんの所に行った。

大人のあなたが、そこにいるはず。

でも、運転席には誰もいなかった。

そしてあたしは、意識がなくなってゆく。

なにかとても気持ちがいい、あたしは後ろに倒れる。

でも、なにか優しいものに支えられているように、ゆっくり後ろになってゆく。

そしてあたしは、

何も分からなくなった。



彼が、そんな不思議な夢から覚めたのは、運命の日の次の朝だった。

彼女が、夢に出てくることは度々あったが、今日のはどこか違う。

つい最近、二十四になった彼にとって、会社に行くための早起きは、まだまだ辛いものがあった。

寝ぼけた目で、朝のニュースを眺めていると、彼女の会社の飛行機が墜落したというニュースをやっている。

まさかと思いながら、そのままニュースを聞き流した。

そして、会社へと出勤して行ったのだ。

昼休みになって、彼が社員食堂に行くと、飛行機事故の続報をテレビがガンガンに流していた。

生存者なし、死亡確認の済んだ人から、写真入りで紹介されている。

定食を食べながら、ぼんやり耳には入ってくる程度に聞いていた彼は、強く後頭部を殴られたような感じがした。

乗務員の中に、彼女の名前があったのだ。

彼女が、客室乗務員をしていたことは、風の噂で知っていた。

最もそれすら、つい最近だったが。

ここ数年、彼女がどんな学校に入って、どんな会社に就職したのかまったく分からなかった。

彼が彼女のことを思い出そうとすれば、いつも高校生の彼女や、中学生、出会った頃の小学生の彼女の姿しか思い浮かばなかった。

それがやっと、友達から彼女が航空会社の客室乗務員になったことを知ったのは、それから間もなくだった。

テレビに映っている彼女の姿は、彼の記憶の中にある彼女の姿ではなく、大人の女性の姿だった。

そこにあるのは、彼の知っている昔の彼女ではなかった。

ある意味で彼は、昔の思い出の中に未だに留まって、彼女の歩いてきた痕跡に想いを寄せていたかもしれない。

そこは彼女にとって、通過点にしかなく、彼女はもっと充実した、素晴らしい生活を送っているのだろうということが分かっていながら、彼の『想い』は、あの星稜の丘に留まっていたのかもしれない。


その日の夜、彼女のお通夜が行われた。

彼は、昔の知り合いということで、焼香だけさせてもらいに行った。

二十四、いや早生まれだから二十三のはずだ。

随分たくさんの人が、お通夜の席にいた。

特に彼と同じくらいの青年が、一番うなだれていた。

フィアンセだということを聞かされて、少なからずショックではあった。

同僚ということで、やはり同じくらいの女性の集団が、傍に座っていた。

いずれも、彼の全く知らない人達ばかりだった。


帰る道すがら、彼は考えた。

昨日の夢、不思議と彼女のフルートの音を鮮明に覚えている。

そして、何か心につっかえていたものが、少し取れたような、そんな感じがした。

これで、やっと僕の思いは彼女から離れられる。

と彼は思った。

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深夜の散歩で起きた出来事 帆尊歩 @hosonayumu

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