とんとんとん
oxygendes
第1話
とんとんとん
私はだっこしたわが子の背中をリズミカルに叩きながら、夜の街路を歩いて行きます。この子は繊細で、ちょっとした物音や振動ですぐ目を覚まし、泣きだしてしまいます。
とんとんとん
そうなったら、こうして背中を叩きながら散歩をしないと泣き止みません。夜も昼もありません。それは仕方がないと思います。
とんとんとん
この子は常春の玉座から寒い世界に引っ張り出され、昼だの夜だの押し付けられて、とても不安な気持ちでしょう。でも、大丈夫。私が付いているからね。私があなたを守ってあげる。
とんとんとん
真夜中の街は静かで、吹き抜ける風が心地よいものです。でも今夜は少し様子が違っていました。ワールドカップと言うものがあって、地球の裏側で今、試合が行われているのです。その中継を見ているのでしょう。電気が点いた家々があり、時折中から歓声がかすかに聞こえてまいります。
とんとんとん
この子が泣き出したのもその歓声のせいでした。日本代表がゴールしたみたい。ご近所で一斉に上がった歓声が家の中まで響き、繊細なこの子を起こしてしまったのです
とんとんとん
道の先に明るく光るコンビニが見えてきました。大抵の夜はこの辺りまで歩いて来ると、とろんとした目の瞼が下がり、この子はすやすや眠りだします。そこからわが家へ引き返すのです。今日も瞼が下がって来ています。
とんとんとん
コンビニの様子もいつもと違っていました。若者たちが数人でお店の前で腰かけて、スマホの画面を見つめています。サッカーの中継を見ているのでしょう。少し離れたところでは若者が一人、ゆらゆらと足を動かしていました。
とんとんとん
近付いてみると若者がサッカーボールをリフティングしているのが見えました。足から膝、膝から足へと軽やかにボールは軌跡を描いて行きます。ボールが身体に触れるたび、とんとんとんと音がしました。
いつのまにかその音とボールの動きに合わせ、私も身体をゆらゆらさせていました。あっ、いけないと思いわが子を見ると、既に瞼を完全に閉じて健やかな寝息を立てていました。
じゃあお家に帰ろうねと、わが子をやさしく抱きしめた時、若者はボールをぽんと蹴り上げて、長くきれいな指でひょいと掴みました。そして私に微笑みかけます。
「こんばんは」
それは優しく穏やかな声でした。
「こんばんは」
私もわが子を起こさないようにと穏やかに応えました。若者は日本代表のレプリカユニフォームを着て、艶やかな素材のチノパンを穿いています。青い幾何学迷彩のユニフォームはテレビで見たものとはどこか違って見えました。
「お散歩ですか?」
「ええ、この子におねむになるように」
わが子の顔が見えるように少し体を捻ると、若者は笑顔になりました。
「よかった。ここに来たかいがありました」
不思議な言葉に戸惑います。
「かいがあるって、サッカーの応援と何か関係が‥‥‥」
「いいえ」
若者は否定しました。
「僕がここに来たのは、二十年後のワールドカップで日本を優勝させるためです」
「優勝、できればいいですけど‥‥‥」
「できればではなくて、優勝するのです。だけどそのためには、この時代からしておかないといけないことがありまして」
「はぁ」
「ほら」
若者はわが子の額を指さしました。
「なんと特徴的な眉毛でしょう。間違いありません、彼こそ二十年後の世界最高のストライカーです」
人相占いの人なのでしょうか。たいそうな意気込みなので、否定しても引き下がってもらえそうにありません。
「そうなったらいいですけど」
「なるんです。でもそのためには」
若者は顔を寄せてきました。
「幼少期からボールになじむことが必要不可欠です。この子が歩けるようになったらサッカーボールを買ってあげてください。おもちゃではなく、革の試合球を」
「はぁ」
「是非、ではなく絶対お願いします」
「わかりました」
こう言わないと放してくれそうにありませんでした。
「ありがとう、では私は次の選手の許に向かいます。彼はもう少し年上でして‥‥‥」
若者はリフティングを再開しました。足だけでなく頭や肩も使いボールを自在に操っています。リフティングしながら歩きだしました。
「では、またお会いしましょう」
とんとんとん、リズミカルな音が次第に小さくなっていきました。
若者を見送ってから私たちは家路につきました。歩きながら考えます。この子にサッカーボールを買ってあげてもいいかもしれない。すぐに一流の選手に成れるとは思わないけれど、この子が望むならチャレンジさせてあげてもいいと思います。
とんとんとん
どこからか軽やかな音が聞こえてきたような気がしました。
終わり
とんとんとん oxygendes @oxygendes
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