第6話 筋を通すべきですわ!

M.モダン・オーケO.ストラ・イラ1390/03/02


 ドルチェはアルトとともに、ブルーノートの街の一角にやってきた。昨日賭けに勝って獲得した品を換金するためだ。現金を除いて、鞄に時計や財布などを詰め込んで抱きしめ、とはいえ——ドルチェは周囲を見回し、こっそりアルトへ耳打ちした。


「ここ、スラムよね? 近づいてはいけないって言われているのだけれど」


 華やかなブルーノートの暗部、夢破れた者、貧困から抜け出せない者、裏社会の住人たちが住まうスラム。ブルーノートでは明確にその線引きがなされ、一般人はおおよそスラムには近寄らない。汚く、狭く、犯罪の温床である、と認知されているからだ。


 実際、道路はどこかの下水管が壊れているのか水浸しで臭いし、建物や地面のコンクリートが派手に割れていても誰も直さない。路地にはゴミが散乱し、座り込んで俯いている老人や痩せこけた性別もよく分からない者、誰も彼もが薄汚い。


 初めて、貴族だったドルチェは社会の最下層に近づいている。噂には聞いていてもやはり恐ろしくて、アルトのジャケットの袖をぎゅっと掴む。


 アルトは邪険にせず、ドルチェを安心させようと宥める。


「大丈夫、俺がいれば誰も手出しはできない」

「そう……なの?」

「ああ。それに、馴染みの顔もいるよ」


 アルトはそう言って、なんてことない、とばかりに歩き出した。ドルチェはそのあとを追いかける。


 角をいくつか曲がったところに、看板も出ていない扉があった。アルトは遠慮なく扉を開き、「どうぞ」とドルチェを招く。ドルチェは急いで、置いていかれないよう扉の中へ飛び込んだ。


 すると、中はコートや鞄、金銀の宝飾品が天井から壁一面に所狭しとぶら下げられ、カウンターのように机が一つ置かれた『店』だった。モノクルを付けた老人が小さな声で「いらっしゃい」と呟き、そしてその前には先客がいて、その先客が振り返るとドルチェは驚きの声を上げた。


「あ、昨夜の!」


 濃茶のスーツを着た恰幅のいい紳士は、ドルチェを認めるなり慌ててやってきた。


「き、君! あの腕時計を返してくれないか!?」


 ドルチェが答える前に、アルトが間に入り込み、紳士を止める。そしてこう言った。


「Mr.トワイス。なら、差し出すべきものが必要でしょう?」


 アルトの言葉の意図を正確に把握した紳士は、懐から分厚い封筒を取り出した。


「もちろんだ、これを」


 アルトは分厚い封筒を受け取り、中を確かめる。ドルチェは肩越しに中身を覗き見たが、入っていたのは札束だ。この紳士はよほど、純金製高級腕時計を取り戻したいらしい。だったら賭けに出さなければいいのに、とはドルチェは思っても口に出さない。きっとこの紳士は昨夜ドルチェを侮っていたのだろうからだ。


 アルトはドルチェに目配せする。


「ええ、であれば……どうだろう? これと引き換えに」

「かまいませんわ。どうぞ」


 断る理由はない。ドルチェは頷いた。鞄から純金製高級腕時計を取り出し、紳士へと手渡す。


 戻ってきた時計を恭しく受け取った紳士は、大きなため息を吐いていた。


「まったく、災難だったよ」

「どうぞお気を付けて。またバーでお待ちしていますよ」


 アルトはにっこりそう言って、紳士を店から送り出した。勝手知ったる、とばかりだ。


「それで、アルト坊ちゃん。今日は何を?」


 店主の老人が、やっと控えめに口を挟む。


 アルトはドルチェが抱えている鞄を指差した。


「ああ、これを頼むよ。換金したい」

「では、見せておくれ」


 アルトはドルチェから鞄を受け取る——が、中身は取り出した。鞄ごと手に入れた書類だけは、小脇に抱える。


「書類は僕がもらうよ。大丈夫、ちゃんと買い取る」

「それはいいけれど、この鞄は売っていいのかしら?」

「持ち主が取りに来ないならいいんじゃないか? まあ、中身は遠慮なくもらうが」

「何をするつもり?」

「もし持ち主が金を用立ててきたら返してやろうと思ってさ」

「ふぅん」

「ただその前に僕が全部中身を調べる、ってだけさ。情報は金なりってね」


 どうやら、アルトは書類の価値が分かっているようだ。ドルチェはそれ以上、口を出さない。価値がある書類というのは往々にして機密情報が記されていて、それは知った人間を不幸にしがちだ。然るべき人間が然るべき時に把握するようにしなければ、神話に出てくる『厄災パンドラの箱』のようになる。


 それはアルトが引き受けてくれるというのだから、ドルチェは反対する理由がない。むしろ、何とかしておいてほしい、というのが本音だ。


 ところが、だ。


「火遊びもそのくらいにしておけ、お坊ちゃん」


 店に入ってきたのは、細面の無精髭、トレンチコートにハンチング帽を被った男性だ。昨日、ドルチェと賭けチェスをしていた——。


「やあ、Mr.アルハン。昨日ぶりですね」


 アルハンと呼ばれた男性は、苦々しそうな表情で舌打ちする。


「ふん、白々しい」

「それはお互い様でしょう。あなたはここで俺たちを探してやってきたわけですから」

「うるせぇ、鞄の中身を寄越せ。それで手を打ってやる」


 アルハンはずいっとアルトへ向けて手を出し出す。あまりにも無遠慮だったため、ドルチェは文句の一つも言いたくなった。アルトの背の後ろから、ブーイングする。


「ちょっと、強引すぎませんこと? これは私が勝ち取ったものですわ」

「そんな話はしてねぇんだよ」

「欲しければ筋を通すべきですわ!」

「だから、そんな話は」


 ドルチェとアルハンの言い争いが過熱する前に、アルトは脇に抱えていた書類をアルハンの手に握らせた。


「これがヴェスティーヴァ・ファミリーの経理情報です。一介の市民としてご協力しますよ」


 にっこり、アルトは微笑む。アルハンはまだ不機嫌そうで、疑わしい視線をアルトへ向けていた。


「助かるが……ただってわけじゃあないだろう」

「あなたはバーでも勤勉に仕事をされる方ですから、これ以上無粋な真似はしてほしくないんですよ。アルハン


 ——警部。目の前にいるアルハンが?


 ドルチェは驚く。


「警部!? 警察官が賭け事をなさってよろしいの?」

「潜入捜査みたいなものだよ。バーは有力な情報源だからね」

「バラすな」


 アルハンはこれ以上ここに止まる理由はない、とばかりに書類を抱き抱えて店を出ていく。


 その前に、とアルトへ嫌味たらしい忠告をしていた。


「ったく。貴族の末裔同士、仲良くやってろ。ユーモレスクの大旦那が目こぼしするうちは、こっちだってお前をしょっぴくことはねぇよ」


 そう言い残し、アルハンはあっという間にいなくなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

BETTING CHESS!!~捕まりそうになった子爵令嬢は新大陸で一旗上げる~ ルーシャオ @aitetsu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ