第5話 勝ち鬨を上げてやりますわ!

M.モダン・オーケO.ストラ・イラ1390/03/01



 その日、ブルーノート五十八番街のバー『ブルージーズ』に『女王クイーン』が舞い降りた。


 そんな伝説が残るくらい、ドルチェは鮮烈なデビューを飾ったのだ。




 カタン、コト、カン、木と木がぶつかり合う軽妙な音が、リズミカルにも聞こえるほどバー中に鳴り響いていた。


 一局の対戦に、バーにいる人々は周囲に集まってじっと息を呑んで観戦している。チェス盤の載る樫の木でできたテーブルは頑丈で、よく音が響く。


 黒の駒を握るのは濃茶のスーツを着た恰幅のいい紳士で、彼を『ボス』と呼ぶ取り巻きは葉巻をくわえながら顔色悪そうにしている。負けが濃厚と分かっているのだ。テーブル上のチェス盤の隣に置かれている賭け金代わりの純金製高級腕時計をちらちらと横目にしている。


 一方で、白の駒を握る十六歳の少女ドルチェ——唾広の帽子に濃紺のティーガウンとロングスカートを着た、いかにも上流階級の淑女のお忍びとばかりの格好——は、黒の駒が恰幅のいい紳士に動かされて盤上に着地した瞬間、もう自分の手を打っている。それがリズミカルな音の正体だった。相手に合わせて、白の駒は盤上で踊る。そして、相手を追い詰めていく。


 黒の駒の数は目減りしていき、気が付けば黒のキングしかいない。これはアルトに助言されてのことで、ドルチェは『一目見て分かる方法で勝つ』ことを勧められたのだ。なぜなら、誰もが『チェックメイト詰み』に納得するわけではない。まだ手はあるはずと主張されて時間を浪費するより、もう何の手もない状態へ追い込むほうが後腐れがない。少なくとも、チェス盤上では。


 ついに、白の駒たちが一体だけしか残っていない黒のキングを盤の角へ追い詰めた。もはや、誰の目にも明らかだ。恰幅のいい紳士の顔が強張り、ドルチェからの宣告に戦々恐々としている。


 それでも、対戦を終わらせるためには、ドルチェは言わなくてはならない。


「チェックメイト。私の勝ちですわ」


 これには恰幅のいい紳士もごねるわけにはいかない。周囲の人だかりを前にして待ったドゥオーバー試合無効ノーゲームを持ちかけるわけにもいかなかった。


「くそ、まいった」


 恰幅のいい紳士は自分の中折れ帽で真っ赤になっていた顔を隠し、天を仰いだ。


 それを合図に、周囲は快哉を上げる。


「お嬢さんの勝ちだ!」

「大穴だ! やったぜ!」


 拍手し、勝者のドルチェを讃えるのは賭けチェスの常連客たちだ。チェスプレイヤー同士が賭けるだけでなく、観客もどちらが勝つかを賭けて、胴元となるバーテンダーを介して乗るかそるかを楽しむ。


 ここの観客たちは労働者もいれば会社経営者もいて、一様にみな男性だ。女性はドルチェただ一人だろう。彼らが手にしているウィスキーのアルコール臭さが鼻についてドルチェは嫌ではあるが、我慢する。


 熱狂する観客をよそに、ドルチェは賭け金の払い戻しを行なっているバーテンダーへ声をかけた。


「次はどなたが?」 

「すぐ調整するからちょっと待っていてくれ。そっちの壁際の席の盤が整っている、座って」

「分かりましたわ」


 ドルチェは席を立つ。もう一度観客からドルチェへ拍手が送られ、ドルチェはスカートをつまんでお辞儀した。そそくさと壁際の席へ移動する。


「ああ、ちょっと待って」

「はい?」

「賞品だ。これを持っていって」


 バーテンダーは、先ほどまで試合の行われていたテーブルから純金製高級腕時計を無造作に掴み、ドルチェの手へ押し付けた。女性がつけるには重たすぎるその時計をドルチェは大事に抱えて、壁際の席の椅子へ座る。すでにテーブル上のチェス盤には白黒の駒がすべて並べられていた。


 手にしている純金製高級腕時計は、初めての勝利、初めての賞品だ。今まで何かを賭けてチェスの試合をすることはなかったから新鮮で、ドルチェはまるで自分の力で勝ち取ったと思えて嬉しくてたまらない。いや、実際にそうだとしてもなかなか信じられないのだ。紳士に戦いを挑んでこんな高級な品を勝ち取るなど、淑女として本来あってはならないことだから。


 それでも、嬉しいものは嬉しい。ニマニマするドルチェは、ハンドバッグにこっそり純金製高級腕時計をしまい、次の対戦相手を待っていた。


 そこに現れたのは、アルトだ。


「やあ、ドルチェ。初戦勝利、おめでとう」

「ありがとう。でも、これはどうしたらいいの?」


 ドルチェはハンドバッグの中を指差す。アルトはすぐにその意味を察して、わざと耳打ちする。


「換金するならいい店を紹介しようか?」

「ええ、お願い」

「了解した、明日行こう。疲れがないなら、すぐに次の試合だけど?」

「大丈夫、やるわ」

「ははっ、やる気十分で何よりだ。派手に勝ってくれ!」


 アルトはドルチェの肩を控えめに叩き、人混みの中に消える。その後ろ姿をいつまでも眺めているわけにもいかず、ドルチェの前の席に次の対戦相手がどかりと座った。


 細面の無精髭、トレンチコートにハンチング帽を被った男性だ。紳士と呼ぶにはいささか野暮で、言葉遣いにもそれは表れていた。


「こんなところに女が来るなんて、珍しいな」


 男性は紙の煙草を箱から取り出し、口にくわえてマッチの火をつける。チェス盤上が白く曇った。


 ドルチェは嫌な顔一つ見せず、愛想笑いを浮かべる。貴族の令嬢としてそのくらいの芸当は身につけていた。


「あら、そうなのね。よろしくお願いいたしますわ」

「ふん、軽くひねってやるよ。女は家でお裁縫でもしてろ」


 男性はガサツな物言いで挑発してくる。しかし、不思議と罵倒の意思は感じられず、ドルチェは拍子抜けした。


「それがお望みなの?」

「あ? どうせ金が欲しくてきたんだろうが、身包み剥がされねぇうちに帰ったほうが身のためだぞ」

「ご心配ありがとう。でも、勝てるとお思いなら、たくさんお金をかけてくださいまし。勝てるのでしょう?」


 男性は、逆に挑発し返したドルチェの顔をまじまじと見て、口の端を歪めて笑う。


「……いいだろう、そのクソ度胸に敬意を払って、有り金全部賭けてやるよ」


 ちょうどそのとき、バーテンダーがやってきた。話を聞いていたらしく、男性が無造作にテーブルへ置いた分厚い財布と、ドルチェが慌てて出した高級腕時計を持ち上げて、宣言する。


「はいはい、Mr.アルハンは有り金全部、ドルチェ嬢は時計。オーケー。では試合開始だ、駒を持ってくれ」


 またしてもドルチェが白を持ち、対局はスタートする。


 そしてわずか四十三手後、男性は「……まいった」と口にすることになるのだ。


 この日、ドルチェは四戦四勝を上げ、純金製高級腕時計と多額の現金、ブランド紳士鞄とその中身を勝ち取り、ホクホク顔でアルトに見送られて家路についたのだった。

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