第4話 Win & I'll be backですわ!
きっかり十分後、バーテンダーとともにドルチェの前に現れたのは、キザそうな青年だった。今流行りのダブルの紺地ストライプ模様のスーツに、真っ赤なメッキ染めネクタイ、短く揃えた黒髪は利発そうだ。
キザそうな青年はドルチェを見るなりにっこりと笑い、友好的に握手を求めてきた。
「へえ、君がそう? 俺はアルト・ユーモレスク」
ドルチェは握手しながら、名乗る。
「ドルチェですわ」
「ではドルチェ、こちらへ。先手の白をどうぞ」
そう言ってアルトが近くのチェス盤の載ったテーブルへ向かう。重そうな木製椅子がぎしりと鳴り、ドルチェを誘っているようだ。
——やっと、チェスが指せる。
ドルチェは張り切って、アルトの対面の木製椅子に腰掛け、最前列に居並ぶ白のポーンを指先に挟む。
「お手柔らかにお願いしますわ」
「ああ、こちらこそ」
バーテンダーがテーブルの横で見守る中、ドルチェとアルトの対局はスタートした。
出会って数十秒にも満たない間に、ドルチェは知らない青年とのチェス盤上での戦いを始めてしまっている。
——よし、思いっきりやりましょう!
ドルチェは今厄介になっている初老の審査官との対局ではさすがに本気を出すわけにもいかず、頑張って手加減していたのだ。一ヶ月ぶりに、本気で打ち倒してもいい相手とチェスを指せる。
白のポーンが二マス進んで、アルトの持つ黒のポーンもそれに応じる。まずは小手調べにポーンの応酬が……と思いきや、ドルチェはさっさとナイトを前線に駆り出し、その後ろからビショップを援護に展開しはじめたのだ。
早い展開、早い手、ドルチェが軽々とノータイムで次々手を打つ。アルトも最初は戸惑いつつも応じていたが、ドルチェと競うように早打ちを続ける。
黒のポーンが、ルークが、ナイトが、あっさりと盤上から姿を消した。怒涛の攻めは津波のように押し寄せ、それでいて蜘蛛の巣のように周到に次の手、次の展開を見越した陣形が待ち受けている。
黒の陣営は、まもなく瓦解した。アルトが目を剥いて、盤上を見回す。しかしもう挽回の手はない、黒のキングとクイーン、二つのポーンしか残っていないのだ。対してドルチェの白の陣営は、半分以上駒が残っている。
チェスが下手なバーテンダーでさえ、形勢が決まったことを察したのだろう。言いづらそうに、アルトへ遠回しに降参を勧める。
「アルト、手はあるか」
アルトは黙っていたが、しばらくしてようやく首を横に振った。ポーカーフェイスを装っているが、悔しさが表情に滲み出ている。
——やりすぎたかしら。ドルチェはそう思わなくもないが、ここで手加減する意味はない。このバーはチェスの指し手を募集しているのだから、強くなければ雇ってもらえないだろう。実力をしっかりと示す必要があった、が……ここまでコテンパンに負かさなくてもよかった、とはドルチェは思い至っていない。自分ならばプライドにかけて、手加減をしてほしくはない。真剣勝負をしたい。その価値観を他人が共有できるかどうかまで、まだ年若いドルチェは想像できないのだ。
それはともかく、アルトは木製椅子を倒す勢いで立ち上がり、天井に向けて両手を上げ、その大きな手で拍手を数度打ち鳴らした。驚くドルチェをよそに、叫ぶ。
「いい! これはいい! 今すぐ客を呼ぶ、今晩の開店までに暇な連中を集めてくる! 久々に賭けチェスが盛り上がるぞ!」
感極まったとばかりに喜び、そしてアルトは走り出し、バーから飛び出していった。
いきなりの行動に呆気に取られたドルチェは、思考が追いつかない。何が起きた、とバーテンダーへ視線を寄越すと、バーテンダーはアルトによって乱暴に開かれたドアがまだ揺れている様子を見てやれやれと肩をすくめていた。
「ああうん、気にしないで。アルトはせっかちでね、『
「いえそれではなくて、賭けチェス? 何を賭けるの?」
「そりゃあまあ、金だろうね。同意があれば物品も賭けるよ、角砂糖から高級腕時計まで」
へー、とドルチェは頷いていたが、よく考えればお金を持っていないことを思い出した。新大陸までの船賃と新生活に何かと入り用で、実家を出たときに持っていた資金のほとんどはもう消えてしまっている。
「大丈夫、今日はアルトが君の賭け金を持つだろうから、遠慮なく指してくれ。じゃ、夕方の六時ごろ、また来て」
よかった、チェスが指せる。ドルチェはほっとした。
こうして、ドルチェはうきうきの足取りでバーを後にし、昼食用のパンを買って一旦下宿先へと帰っていった。
夕方の六時、またこのバーへ舞い戻ると心に決めて。
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