第3話 自分を安売りしてはいけませんわ!

 税関島からの帰り道、ドルチェは就職斡旋所の外にある掲示板を眺めていた。


「んー……新聞社の事務員の募集でもあればよかったのに、残念」


 いくつもの求人票がピンで留められ、ドルチェの他にもさまざまな人々が求人票を見ては次へ、気に入ったものがあればちぎって取って就職斡旋所の中の受付へ、その繰り返しだ。


 しかし、人気の求人はあっという間に募集を締め切るし、どうしても男性社会であることから積極的に女性の働き手を求めるところは少ない。内職のお針子やレストランのウェイトレスくらいならここへわざわざ来なくてもいいから、居並ぶ男性の中では余計にドルチェが目立つ。


 新しく求人票を貼り付けに来た就職斡旋所の職員へ、ドルチェは詰め寄る。


「チェス・プロブレムやエチュードの問題作成なんて仕事はありませんこと?」

「ないねぇ。あれは新聞社がチェスのプロに作局を頼むものだからね」

「私だって」


 そう言われると、どうにも歯がゆい。ドルチェは自分の特技が世間では求められるスキルではないと分かって、打ちのめされる。


 下手に読み書き計算ができるだけに、下宿先の家主であるあの初老の審査官は職を妥協するなと言う。自分を安売りしては、セプテート連邦では生きていけないそうだ。それはそうなのだが、いつまでも衣食住の世話をしてもらうわけにはいかない。


 セプテート連邦に来てから毎日色々と考え、足繁く掲示板に通うが、まだドルチェは手に職をつけられていなった。


 悩みつつも、今日は日が悪い、と割り切って帰ることにしたドルチェは、求人票を貼り終えて就職斡旋所の中へ入ろうとしている職員にこう尋ねた。


「ごめんなさい、近くでチェスができるところはご存じ?」

「そうだねぇ、バーでやっているところは多いかな。五十八番街に行けば、チェスのプレイヤーを募集するポスターが貼ってあるよ」

「分かりましたわ、ありがとう!」


 チェスを指して給料なんてもらえないだろうとは思うものの、可能性があるなら確かめてみたい、あわよくば帰る前に気晴らしに一局できれば——そう思ってドルチェはブルーノートの五十八番街へと向かった。


 バーが多い、つまり飲食店が立ち並ぶ五十八番街に初めてやってきたドルチェは、確かに何かとポスターが多い、ときょろきょろと色とりどりの煉瓦の壁を見回す。


 印刷技術の発達したセプテート連邦では、一般庶民も新聞やポスター、チラシ、それに書籍にまで親しんでいる。それに、来たばかりで公用の文字が読めない移民の人々のために、分かりやすいイラストで表現する技術が切磋琢磨されていて、カラフルで鮮やかだ。


 眺めているだけでも楽しいポスターの列を一つ一つ見て、ドルチェはやっと目当てのものを見つけた。カクテルとチェス盤のイラスト、そしてチェスプレイヤーの募集。ちょっとした社交の場で、ある意味興行ショーのようにチェスの対戦を売りにするバーがあるのだ。


 住所を憶えて、駆け足で走り、すぐにドルチェはそのバーへ辿り着く。煉瓦造りのビルの地下階段前に、鉄製の樽型看板がぶら下がっている。閉店の下げ札は出ているが、中に誰かがいると察して、ドルチェは踏み込んだ。


「ごめんくださいまし! あの、チェスのプレイヤーを募集しているとポスターで見ましたの!」


 ドルチェは勢い余って、大声で店内へそう呼びかけた。


 薄暗い店内はそれなりに広いがテーブルや椅子、楽器や大判ポスター、小さなステージとごちゃごちゃしている。カウンターテーブルの向こうには、バーらしく色とりどりの酒瓶とグラスがずらりと並んでいた。


 カウンターに、一人の中年のバーテンダーがいた。眠そうな顔をして、丸眼鏡をかけてからドルチェへ向けて、ささやかな笑顔を向けてくる。


「はいはい、その件ね。お嬢さん、チェスを嗜んでいる?」

「はい、少しばかり……手加減は下手ですけれど」


 バーテンダーはカウンターから出てきて、ドルチェの前にやってきた。ちらりと品定めするようにドルチェの全身を見回してから、自分の顎に手を置き、うんうんと頷く。


「うん、いいね。何せこういうところは、商売女を嫌う紳士が多くてね。そういうのは別の店でやって、ここでは社交場として流行の娯楽を楽しむ、というわけだ。お嬢さんはそうだね、とても上品で、そういう商売風には見えないし、チェスの上手な淑女がお忍びで、っていうにすればみんななんだかんだと喜ぶ」


 ドルチェは一瞬、バーテンダーが何を言っているのか分からなかったが、すぐに言いたいことを飲み込んだ。まさか、キャバレーのホステスや踊り子と同じ視点で品定めされるとは思ってもみなかった。だが、そういう女性店員とは違うのだ、と理解してもらえたのだから、と複雑な胸中はしまっておく。


 バーテンダーはそんなドルチェの心中や素性など興味はないのだろう、それ以上尋ねることなく、チェスに関する話に入る。 


「ただ、実力のほどを知るには」

「今すぐ指せますわ」

「いや、俺はチェスが下手でね。ちょっと待って、まだ近くにアルトがいるはずだから呼んでこよう」


 そう言って、バーテンダーはバーの外の階段を駆け上がっていった。


 ドルチェは首を傾げる。


「アルト?」


 初耳の名前だが、おそらくこのバーの関係者だろうし、とドルチェはカウンターの椅子に座ってバーテンダーの帰りを待つことにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る