第2話 セプテート連邦ですわ!

 M.O.1390/03/01


 朝霧立ち込める港の入国審査兼防疫所のある税関島は、人で埋め尽くされていた。


 新大陸セプテート連邦の入り口であるラプソディ湾内に入ってくる船は、必ずこの税関島へ客も搭乗員も下ろし、老いも若きも一律に審査される。感染症を持つ病人であれば隔離され、病棟のある島へ。問題なければラプソディ湾内を進んで、セプテート連邦最大の都市ブルーノートへの入国を許可される。


 昨今、セプテート連邦への旧大陸からの開拓移民が急増し、一日何万人と押し寄せることも珍しくはない。それだけセプテート連邦で一旗上げようという貧民、若者、不遇な境遇の人々は多く、何もかもが身分で決まる貴族社会の旧大陸にはみな飽々としていた。


 カウンター内に座る初老の審査官が、提出された書類にひたすら目をやり、日付けのスタンプや署名を書き入れていく。日も昇らぬうちから始まるこの仕事は、初老の審査官にとっては慣れたものだ。色々な人々がやってきて、みな一様に希望を求めていた。必ずしもそれは叶えられなくて、病気で引き裂かれる家族、犯罪歴を隠せなかった若者、偉ぶって貴族の身分を振りかざそうとする男性、そういった人々もこの島へやってきては行き先を振り分けられる。とはいえ、旧大陸へ戻される人間はごくごく少なく、セプテート連邦はほとんどの人間を受け入れる。なぜなら、セプテート連邦は移民の国だからだ。最初の開拓者だって、国を追われた人々だった。なのにここに来てまで追われてしまう人間を作るのは、誰もが避けたいと願っている。病人であれば病棟のある島で療養させてそれから上陸許可を出すし、犯罪者であれば誓約書と担保を納めさせる。貴族は列に戻され、順番に、平等に審査を受け直させられるだけだ。


 初老の審査官が、やれやれと手元のコーヒーに手を伸ばそうとしたそのとき、カウンターへ一人の少女がやってきた。


「おじさま、お届け物ですわ。おばさまから今日の朝ご飯のサンドイッチと、お昼までのお口直しにクッキー。それと、税関のみなさまに新聞と濃いコーヒーを、と」


 ピンクのつば広の帽子に、ふわふわのドレスとコート、それから真新しいブーツを履いた少女は、カウンターに手カゴを一つ、それからまだ温かい大きな鉄製のポットを置いた。


 初老の審査官は、ああうん、と不器用に返事をしてから、少女——ドルチェへ礼を言う。


「ありがとう、ドルチェ。重かっただろう」

「まあまあですわ。おじさま、持ち帰るものはなくて?」

「今のところは大丈夫だ。昼食はなんだね?」

「おばさまが朝市で買ってくるもの次第ですわ。多分、野菜スープでしょうね」

「じゃあドルチェ、これで帰りにパンを買っておいてくれ。今なら焼きたてが買えるだろうから」


 ドルチェはにっこりと笑い、初老の審査官から小銭を受け取る。


「分かりましたわ。では、ごめんあそばせ」


 仕事を任されたドルチェは、うきうきとした足取りで帰っていった。


 近くを通った少壮の事務員へ、初老の審査官は鉄製のポットを渡す。


「おい、これをみんなに。それとクッキーもある」

「おお、料理上手なご自慢の奥様からですか。いやあ、助かりますねぇ」

「世辞はいい。ほら」


 少壮の事務員へとぶっきらぼうに鉄製のポットを押し付け、初老の審査官は手カゴのクッキーを包んだ袋を取り出して、投げた。それから、ドルチェから受け取った新聞紙を広げる。


 暇な事務員が、マグカップ片手にコーヒーを求める審査官たちへ注ぎにいく。クッキーを貪りにやってきた女性審査官が、初老の審査官へ話しかける。話題は、コーヒー運び人、ドルチェだ。


「あの子、どうです? いきなり働き口をここで求められたときはびっくりしましたが」

「ああ……いい子だよ。困っていたんだろう」

「こうして毎日、淹れたてのコーヒーを届けてくれるってのはなかなかにありがたいじゃないですか。奥様の腰が治るまでと言わず、雇ってあげればどうでしょう?」

「馬鹿を言うな。ただの入国審査官の安月給で人を雇えるか。それに、あの子は自立したいんだ。それまでの宿と食事を、きちんと働いてもらって」


 通りすがった少壮の事務員が、初老の審査官によってばさりと広げられた新聞の片隅を指差した。


「あれ? 今日のチェス・プロブレム、もう解かれてますよ」


 そこには、チェスの8x8の盤面といくつかの白黒の駒が配置された図があった。セプテート連邦では新聞に娯楽連載が載ることもしばしばで、小説や漫画のほかに人気なのはこうしたチェスのパズル『チェス・プロブレム』や『エチュード』といった詰めチェスだ。大まかには、解答条件を提示し、テーマや美しさに沿った答えを競い合う。


 ところが、すでに今日の『チェス・プロブレム』の横には「(a) 1.Qf6 Sc5 2.Qb2 Ra4, (b) 1.Rb6 Rb1 2.Rb3 Ra1, (c) 1.Bc4 Se1 2.Ba2 Sc2, (d) 1.Sc5 Sc1 2.Sa4 Rb3, and (e) 1.a5 Rb3+ 2.Ka4 Sc5」と一見ただの文字と数字の羅列が並び、端正な文字で五つの条件に合うが刻まれていた。


 それを見た初老の審査官は、誰の仕業かすぐに見抜いた。


「ああ、あの子だろうな。ここへ来る船の待ち時間に書き込んだんだろう」

「え!? これをそんな簡単に!? すごくないですか?」

「賢いんだ、あの子は。家に帰って一緒にチェスをやるのが楽しみでね」


 初老の審査官は新聞を群がってくる事務員へ寄越し、一つ背伸びをして、仕事を再開した。帰ったら、ドルチェに休憩時間の楽しみを奪うな、と言っておこうと考え、それからもっといい方法を思いついた。帰りに本屋へ寄って、ペーパーバックの詰みチェスの問題集を二冊買おう。ドルチェに渡して答え合わせを約束すれば、しばらくはそれをやるだろうから。


 帰りを楽しみに、初老の審査官は今日も入国審査書類と格闘する。

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