BETTING CHESS!!~捕まりそうになった子爵令嬢は新大陸で一旗上げる~

ルーシャオ

第1話 八百長などごめんですわ!

 M.O.1390/01/30


「なあ、ドルチェ。みんなの前でチェスを指して、わざと僕に負けてくれないか。サロンでは無敗の『クイーン』で知られている君に勝てるところを見せれば、一目置かれるだろう? この間からペザンテ伯爵家として新しい金融事業を始めたし、上流階級にはチェスに熱中している貴族も多いから、話題になって交渉も上手くいく。君にとっても、婚約者がこんなにも強いんだ、と知らしめられて気分がいいだろう?」


 そうおっしゃったのは、私の婚約者であるペザンテ伯爵トレヴァです。


 そうおっしゃったのです、本当に。ペザンテ伯爵邸にお呼ばれした久々の二人っきりのお茶会で、唐突に。


 一度たりともチェスで負けたことのない私に、わざと負けろ、と。


 なので私、コンモート子爵令嬢であるドルチェ・アタッカ・コンモートは、生まれて初めて激怒して、手元にあったチェスのポーンの駒をぶん投げました。


「おととい来やがってくださいまし!」


 黒曜石でできたポーンの駒は勢いよくペザンテ伯爵の顔に当たり、コーヒーカップにぽちゃんと落ちていきました。跳ねたコーヒーの水滴がペザンテ伯爵のドレスシャツに散り、わなわなと震えるペザンテ伯爵の手がさらにコーヒーをこぼします。


 やってしまったと思わなくもありませんでしたが、それ以上に、八百長で無様にも負けろと提案されてプライドを傷つけられた私は、ペザンテ伯爵への敵愾心と怒りが爆発しておりました。


「私はただの一度も、チェスで手を抜いたことはございません! 私にとっては十六年の人生で一番心血を注いできたもの、それがチェスです! あなたは私を侮辱し、挙句に自分のためだけに利用しようとなさっているの! なんと浅ましい、なんと卑しい! 貴族としてプライドはございませんこと!?」


 言うだけ言って、私はさっさと帰ろうとしました。これ以上、ペザンテ伯爵の顔を見たくなかったからです。


 しかし、ペザンテ伯爵はこう言いました。


「たかが貧乏子爵家の娘が、貴族だなんだとこの僕に説教できる身分だと思っているのか! 身のほどをわきまえろ! 僕の成功のために尽くせるのだと考えられない、婚約者としてあまりにも図々しい慮外者はお前だ!」


 私、そこまで言われてはプッツンでございます。


 大して顔もよろしくない、運よく伯爵家を継いだだけの男が、自分に尽くせと迫り婚約者を罵る? いかに貴族社会が男尊女卑の慣行に溢れているとはいえ——言っていいことと悪いことがございますでしょう。


 ですので、私は売り言葉に買い言葉、啖呵を切って差し上げました。


「あーらご無礼仕りましてよ、伯爵閣下! あなたの成功が約束されていれば尽くして差し上げましたけれど、あなた程度の頭脳で金融事業など論外! 私もコンモート子爵家も、地獄行きに巻き込まれるようなものですわ!」


 二の句が継げないペザンテ伯爵、ええそうでしょうね、あなた、どうせ銀行にそそのかされて金融事業だとかなんだとかに乗り気なのでしょう。


「生き馬の目を抜く金融業界で、あなたみたいな温室育ちのおぼっちゃまが戦えるわけがございませんでしょう!? 銀行はペザンテ伯爵家の財産だけが目当てで、借金漬けにして没落させてすべて奪い取ることしか考えておりませんのよ!?」

「黙れ黙れ黙れ! 低脳な女ごときが口を挟むな! 少し知識をかじっただけで口出しするなど、しつけのなっていない! お前となど誰が婚約をするか! 婚約破棄だ、出ていけ!」

「はっ、お望みどおり出ていきますわ! 婚約破棄はあなたが言い出したのです、違約金はしっかり払ってくださいまし!」


 とまあ、このように私はさっさと顔が真っ赤っかの茹で蛸伯爵を放り捨てて、家に帰りました。




 ところが、少々やりすぎたようでございます。


 数日後、コンモート子爵家に警察がやってきました。


 なんの事件やら、と私は我関せず、新しく手に入った棋譜を手に楽しくチェス盤をいじっておりましたら、執事のカブリーニが慌てて私の部屋にやってきたのです。


「お嬢様、大変です! 今すぐ荷物をまとめて、裏口からお逃げください!」

「はい? な、なんですの?」

「警察が、あなたを捕まえようとしています! ペザンテ伯爵家から婚約者の身分を利用して財産を不当に奪った嫌疑がかけられている、などと主張し、旦那様が応対中です!」


 私、カブリーニのその言葉を理解するまで、数秒かかりました。


 なぜ私が財産を奪ったことに? ただ一つ、間違いないことは——。


「冤罪ですわ! まったく身に覚えがございませんもの!」

「分かっております! しかし我が家では、ペザンテ伯爵家が後ろにいる警察に太刀打ちができないこともお分かりでしょう!?」


 私は唇を噛みます。貴族が白と言えばカラスだって白、警察などその程度の存在です。ましてや貴族同士の争いなら、より権力や財産を持つ者におもねるものです。


 つまり、貧乏なコンモート子爵家では、財産に余裕のあるペザンテ伯爵家と争うことは無謀極まるのです。裁判だって、裁判官は賄賂漬けで勝てる目はないでしょう。先日の私との口喧嘩でプライドをけちょんけちょんに砕かれて負かされたからでしょうが、まさかこんな手を使ってくるほどペザンテ伯爵が卑劣だとは思っても見ませんでした。


 湧き出てくる罵倒は呑み込み、私は近くにあった服や必要最低限のものを旅行用バッグに放り込みます。


「分かりましたわ、逃げ道は確保できておりますの?」

「問題ありません、馬車を回しました」

「では、適当に……ああ、チェス盤だけそこの箱にまとめておいて! 持っていきます!」

「かしこまりました!」


 今考えなければならないことは、逃げること。


 家に迷惑がかかっているとしても、私を差し出して、それで終わりとするわけがないのです。もはやそんな次元ではなく、コンモート子爵家の進退がかかっています。だからこそ、私が捕まってほぼ無意味な裁判で有罪とされることだけは避けなければなりません。


 それさえ避けられれば、まだチャンスはあります。


 旅行用バッグとチェス盤の箱を手に、私はカブリーニの差配で屋敷の裏口の馬車へ向かいます。古くは砦も兼ねた古い屋敷ですから、入り組んだ建物と裏手の森が幸いして、表にたむろしている警察には裏口の様子など分からないでしょう。


 旅行用バッグを二頭立ての馬車へ放り込み、私も一人で飛び乗ります。馬車の扉を閉める前に、カブリーニが私へ大きな封筒を一つ手渡し、そして最後の助言をしてくれました。


「お嬢様、すぐに港町へ。そこから船に乗ってできるだけ遠くへ、ペザンテ伯爵では到底手の届かない土地へ行くのです。この大陸では無理かもしれません、新大陸へ行くこともお考えを。今は新大陸行きの開拓移民ばかりですので、紛れて安全に逃げられる可能性が高いでしょう」


 私は頷き、カブリーニはすぐに馬車の扉を閉め、御者へと命じます。


「行け! 捕まるなよ!」


 その言葉を合図に、馬車は勢いよく走り出しました。装具もなにも外された馬車は、速度をどんどんと上げていきます。


 揺れのひどい馬車の中で、私はついに罵倒の言葉を吐きます。同時に、自分のやるべきことを口に出すのです。


「性根の腐った○○男! いいでしょう、逃げ切って差し上げますわ!」


 チェス盤を抱きしめ、私は故郷を脱出しました。


 少しばかりの餞別を元手に、できるだけ遠くへ。

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