第2話 髭面オネエの奇妙な邂逅
バーの仕事が終わった後、真奈とファミレスで話していたら空がすっかり白み始めていた。予定外の完徹。
「あー、今日一限からだった……」
目の下にクマを作った真奈が建物の合間から見える朝日を恨めしそうに眺めながらつぶやく。
「もう、禅ちゃんと話してると楽しくて時間忘れちゃう」
その恨めしそうな目のままこちらを振り向いた真奈が、ばしっとあたしの肩を叩いた。
「あらやだ。あたしのせいにしないでよ。でもあたしも真奈とお喋りするの楽しくて好きよ」
言いながら彼女の頭をポンポンと撫でる。すると真奈はにかっと嬉しそうに笑ってあたしの腕にその細い腕を絡ませた。
「あーあ。禅ちゃんがあたしの彼氏だったら良かったのになー」
腕を絡ませたままゆっくり歩き出すと、真奈が冗談とも本気ともつかない口調でため息とともにそう吐き出した。可愛いこと言うじゃない。
「じゃあ付き合ってみる?」
真奈の顔を覗き込む。あたしの冗談に、彼女は顔をきょとんとさせた。
「禅ちゃんってゲイじゃないの? 前付き合ってたの男の人だよね?」
そのストレートな質問に笑ってあたしはうーん、と思わず唸る。
「どうなのかしらね? 男の子とも女の子とも付き合ったことはあるけど、自分でもよくわからないわ」
これは本当に正直な気持ち。誰かと付き合うときはいつも相手からの告白やアプローチで、あたしが自ら誰かに迫ったことなんて一度もない。
そもそも誰かと付き合いたいと思ったことさえないのだ。今までのパートナーたちは一緒にいて苦じゃなかったから、なし崩し的に付き合うことになっただけ。相手から来なかったら付き合うことはなかったと思う。
「ふーん? バイってこと?」
真奈は不思議そうな顔で首を捻っている。そりゃあ理解できるわけないわよね。あたしだって自分でわからないんだもの。
「どうなのかしらね?」
周りが異性を意識し始める年齢になっても女の子にまったく興味を持てなかった。かと言って男の子に興味があったわけでもない。巷で流行るラブソングも全然ピンと来ない。
誰かを想って胸が張り裂けそうなんて想像がつかないし、想い人のために眠れない夜を過ごしたことなんてない。
誰かと付き合ってみれば何かわかるかと思って初めて恋人をつくったのは高校生の頃。相手は告白してきてくれたクラスの女子。その子と男女の経験もしたけれど、恋という感覚はやはりよくわからないまま終わってしまった。
そこから紆余曲折、老若男女と付き合ったが結局愛だの恋だのはわからない。
偉そうに人の恋愛相談に乗っていながら実のところ自分の性指向さえわかっていない。知ったような口をききながら、実は初恋さえ経験していない。
あたしってとことん矛盾を抱えてるわよね。
自嘲して微笑むと、真奈は今度は考え込むような顔をして「ふーん」とつぶやいた。
「禅ちゃんなら彼氏として最高だろうけど……」
またそう繰り返した真奈に、もう一度「やっぱり付き合ってみる?」と押してみる。
すると彼女はふふふ、と含み笑いであたしを振り返った。
「でもやっぱりやめとく。だって禅ちゃん、私のこと好きなわけじゃないし。それに禅ちゃんにはずっと私のお姉ちゃん時々お兄ちゃんでいてほしいから」
そう言った真奈がぎゅっとあたしの腕を抱きしめる。
可愛いこと言うじゃない。
さらに強く光を放ちだした朝日に目を細めながら、あたしは真奈の笑顔に笑顔を返した。
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真奈を家まで送り届けて自宅へと向かう。
もう夜明けではなくてすっかり朝の気配。早くも通勤を始める会社員とちらほらすれ違う。
今日はカフェのバイトはオフで夕方からバーの早番だ。昼間は寝て夜に備えようかしら。でもその前に溜まってる洗濯物も片付けなくちゃ。ああ、ジムにも行きたいわね。久々に汗を流したいわ。
思いながら歩ていると、根城にしているマンションが見えてくる。新しいわけでも古いわけでもない十階建てのマンション。その五階にあたしの部屋はある。
エントランスの自動ドアを潜り抜けて、ついでに郵便を確認しようかと自転車置き場の傍らにある郵便受けの方向に目をやると、何かを探すように床に這いつくばる女性の姿。
コンタクトでも落としたのかしら?
おそらく通勤前の彼女は、ネイビーのスーツが床に擦れるのも気に留めず必死に何かを探してきょろきょろしている。
「おはようございます……」
戸惑いながらも住民としてのマナーで声をかけると、彼女は這いつくばったまま勢いよく顔を上げてあたしを見た。
ばさばさに伸ばしっぱなしの前髪で彼女の顔はよく見えない。でも前髪の向こうにうっすら見える目がおどおどと落ち着きなく動いているのがわかる。
「あ、あの、お、お、あの……おはようございます……」
まさに蚊の鳴くような声とはこのこと。すぐさま顔を伏せた彼女は、床に這いつくばったままピタリと動きを止めてしまった。
「何かお探しですか? 手伝いましょうか?」
鍵でも落としていたら大変だ。そう申し出ると、しかし彼女はぶんぶんと首を勢いよく横に振って立ち上がり、あたしに一礼してマンションの外へと駆け出してしまった。
「何だったのかしら……」
彼女の去っていった方向を見たまま誰にともなく独り言ちて、さあ郵便物を確認しようと方向転換したあたしの目の端に何かが引っかかる。
自転車置き場へとつながる通路の隅に紙片のようなものが落ちているのが見えたのだ。それが写真のように見えて、もしかして彼女が探してたのはこれかしらと思い至る。
裏返っていたその写真を拾い上げ、パッと目に入った表側を見てあたしは思わず固まった。
下着姿の筋肉質な白人男性がさわやかな笑顔でこちらを見ている。
うわあお。
声にならない声を出して、あたしは今の彼女の走り去った方向をもう一度見た。
そりゃあこんなもの一緒に探してくださいなんて言えないわよね。
彼女の挙動不審に得心がいき、同時に朝っぱらから何てものを見てるのかしらと呆れてしまう。
「おはようございます」
背後から声をかけられて振り返ると、おそらく登園するのであろう幼稚園児連れのお母さんがエレベーターから降りてきて、あたしは咄嗟に手の中の写真を自分のポケットに突っ込んだ。
朝っぱらからこんなもの持って突っ立ってる髭面マッチョなんて怪しすぎる。
「おはようございます」
愛想笑いでその場を躱し、そのままエレベーターに滑り込むとお母さんと手を繋いだ男の子が肩越しに手を振ってくれた。
あら可愛い。
子供は好きだけれど、自分の容姿があまり保護者受けしないのは重々承知なので絶対に自らは声をかけないようにしている。
でもたまにあたしにも分け隔てなく挨拶してくれる親子もいるからこのマンションは気に入っているのよね。
エレベーターのドアが閉まるまでその子に控えめに手を振って、そのまま五階へと上がっていく。
自分の部屋の前で鍵を取り出そうとポケットに手を入れて、先ほど突っ込んだ写真に手が当たり、あたしは思わず顔をしかめた。
流れで持ってきてしまったけれど、これはどうすればいいのかしら。
玄関で改めてその写真を眺めながらため息をつく。
返そうにも彼女が何階に住む誰なのかもわからない。捨てようかとも考えたけれど、万が一これが彼女にとって大事なものだったり、レアもののブロマイドで後から訴えられたらなんてことが心配になる。
「ああ、もう面倒くさいわね」
なんだか写真の中で暢気に笑顔を浮かべているこの白人男性にだんだん腹が立ってきて、ぞんざいにその写真を下駄箱の上に置く。
「あたしの方が良い体してるわよ」
ふん、と鼻を鳴らしてから写真に向かって少し胸を張ると、急にバカバカしくなってあたしは履いていた靴を乱暴に脱ぎ捨てた。
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