ハナフルソラ

伊月千種

第1話 髭面オネエの凡庸な日常

 この感覚をなんと表現すればいいのかしら。


 あえて言葉にするならば不完全感。


 自分の存在がしっくりこない。


 アイデンティティの不確立。


 自己承認の欠如。


 まるで世の中から自分だけが外れたところにいるこの感覚。


 きっかけはなんだったかな。


 物心つくかつかないかの幼い時分、靴屋で自分が選んだ蛍光ピンクの靴に困った顔をした両親を見たとき。


 あるいは同級生の男子がサッカーや野球に夢中になっている中、女子と一緒になってドラマやアイドルの話に花を咲かせていたとき。


 はたまた高校の文化祭の女装喫茶をきっかけに自分の口調を女性的に変えたとき。


 とにかくいつの頃からか付きまとい続けるその違和感に鬱々としながら、それでも毎日をなんとなく過ごし、ふとした時に戻ってくるその感覚となんとか折り合いをつけようとたまに葛藤する。


 そんなことを繰り返しながら今まで生きてきた。


 おそらくそれは若い時期に誰にでも襲い来る感覚で、別にあたしは特別ではないのだろう。


 でも多くの人が思春期に置き去りにするその悩みについて、二十歳を過ぎても未だに考え続けているあたしは、やっぱり世の中の型というものに嵌りきれない異物な気がする。


 それを吹き飛ばすように明るく振舞ってはいるけど、一人で家に帰った時に襲い来るどうしようもない虚無感。


 こんな風に感じているのはあたしだけ? それとも表に出さないだけで本当はみんな同じようなことを感じているのかしら。


 心の中で尋ねてみても答えは出ない。


 あたしはどこへ向かえばいいのかしら。


 何度その疑問を頭の中で繰り返しても、答える人は誰もいない。


-----


 大学卒業間近になってもスーツを着て毎日電車で通勤し上司や取引先に頭を下げる自分の姿なんて想像ができなかった。


 周りからの白い目も気に留めず、就職活動もせずにバイトに明け暮れ、卒業後もフリーター生活。


 両親はもうとっくの昔に諦めていて、大学卒業後にフリーターになることをあたしが告げたときも「好きにしろ」と冷めた目で言っていた。


 彼らはすべての期待を弟たちにかけているのだ。それでも大学卒業までは学費を出してくれた両親に感謝をしていて、バイト代の中から月々少しずつ仕送りをしている。


 今は二つのバイトを掛け持ちしているけど、昼間に働いているカフェでは勤続年数が長く仕事の要領も悪くなかったからバイトとしては破格のほぼ社員扱い。


 堅実に貯金もしてこの調子で行けばフリーターでもまあまあやっていけるのではと思っていた矢先、思いがけないトラップに引っかかってしまった。


 本社から新しく赴任してきたカフェの店長お気に入りの女子大生バイト。あろうことかその彼女があたしに惚れてしまったのだ。


 最初は店長からのアプローチに困っているという彼女の悩みを休憩時間中に聞くでもなしに聞いていただけ。でもそのうちに彼女からの露骨なアピールが始まった。


 恋愛相談から恋愛関係に発展する。男女間でよくあるパターン。問題はあたしにその気がまったくないという点。


「わたし、ちょっと男性恐怖症なんですけど、禅さんは同性の友達みたいで安心できます」


 そう言いながら胸を押し付けてくる彼女に、本当に男性が苦手なのかしらという疑問しか湧かない。


「あら、そうなの? あたしのことは姉みたいに思ってもらって構わないわよ」


 やんわりとその腕を払いながら表面だけの笑顔で躱す日々。


 新しい店長はあたしの髭面のオネエ口調という個性に以前から思うところがあったようで、あたしに対する当たりはもともとキツかったのだけれど、このバイトの女子大生の件をきっかけにますます嫌われてしまった。


 今ではちょっとしたことでも鬼の首を取ったかのように怒鳴られ、何もない日でも嫌味を言われる始末。


 正直、仕事とプライベートはしっかり線引きをしたいあたしとしては仕事に恋愛を持ってこられるのが一番厄介なのよね。


 疲れた体を引きずって昼間のカフェから夜のバイト先のバーへと向かう。


 最近は恋愛の絡んだごたごたのおかげでカフェのシフトを減らし、夜の仕事に力を入れている。


 酔ってくだを巻く客を適当にあしらい、常連さんには愛想を振りまきながら大好きなお酒の研究。


 もとよりバーテンダーはあたしの性に合っていたので仕事として問題はないけれど、カフェの仕事は待遇が良かったのでそこは痛手だ。


 はあっと一つため息をつくと、ばしっと肩を叩かれる。その勢いに驚いて振り向くと、バーのママが妖艶な笑みで立っていた。


「そんな辛気臭い顔でカウンターに立つんじゃないわよ。目の前にいなくてもお客様は意外と見ていらっしゃるのよ。プライベートで何があっても店に立ってる間はしゃんとしなさい」


 隙のない完璧な笑顔ですごみのある声音。さすが女手一つで三人の子供を育てた女丈夫だ。


「ごめんなさい、ママ。プロ意識が足りなかったわ」


 小首をかしげて素直に謝ると、ママはまたにっこりと口角を上げた。


「わかればいいのよ。しっかりね」


 それだけ告げると馴染みの客を見つけて営業スマイルでそちらへ歩み寄っていく彼女を見送りながら、今度は心の中だけでため息をつく。


 だめだめ。プロ意識。


 自分に言い聞かせ、僧帽筋を意識して背筋を伸ばす。


「やほー、禅ちゃん。最近よく入ってるね」


「あら、畠さん。いらっしゃーい」


 入り口から一直線にカウンターへ向かって来た常連のサラリーマンに極上の営業スマイルを見せると、あたしは心の中のもやもやを打ち消すように彼の好きなお酒に手を伸ばした。


「聞いてよ、禅ちゃん」


 カウンター席につくなり会社の愚痴を言い始めるのは畠さんのお決まり。あたしはいつも通り彼のお話に、相槌とちょっとした軽口を挟みつつ静かに聞くだけ。


「ほんと嫌になっちゃうんだよ」


 あたしが出したグラスをぐいっと呷った畠さんの左手薬指にはきらりと光るシルバーの指輪。


 社畜の鑑でほぼ会社に住んでるみたいなもんだ、なんていつも嘆いている割に、仕事終わりにこんなところで油売って奥さんほっぽってていいのかしら。


 心の中で疑問に思っても顔はいつでもスマイル。


 仕事や家庭で知らないうちに内側に溜まってしまった毒を、お酒とあたしたちの笑顔で少しでも吐き出させて楽にしてあげる。そして少しでも楽になったお客様が仕事でも家庭でも円満な人間関係を築けるように。


 それがママが掲げるこのバーの理念だ。あたしもそれに賛同したからこそこうして働かせてもらっている。


「禅ちゃんはいいよね」


 目の前に座る畠さんが少しお酒のまわった顔でじとっとあたしを見つめるのを、目を見開いて見つめ返す。


「なーんか自由に生きてるって感じでさ。人生楽しそうだよね」


 彼の言葉に内心苦笑してしまう。


 こういう喋り方だと、信念を貫いていて強いだとか、自由に生きているとか、人生を楽しんでいるとか、そんな風に見られることが多い。


 実際には他の人とそう変わらないのだけれど。


「うふふ。そうね。でも畠さんがもっと会いに来てくれたら、あたしの人生ますます楽しいんだけど」


 心の内を笑顔の奥に押し隠すのがだいぶ上手くなったのもこのバーで働き始めてからだ。以前は思っていることが全部顔に出ているとよく言われていた。


「俺が来ても禅ちゃんがいないことが多いんじゃん!」


 赤ら顔をくしゃくしゃにして、タンっとカウンターを軽く拳で叩いた畠さんが残りのお酒を呷る。


「あら、そうだったわね。ごめんなさい」


 畠さんは見た目よりかなり酔っているらしい。カウンターに溢れたお酒の雫を台拭きで拭いていると、畠さんはあたしの武骨な手にそっと手を重ねて顔を寄せてきた。


「そういえば前から聞きたかったんだけど、禅ちゃんってベッドでは攻める方? 攻められる方? やっぱりそんなに筋肉のついた良い体してるし、攻める方なのかな?」


 頬にかかる畠さんの息からむっとしたお酒の臭いが漂ってくる。


「やだあ! あたし、下ネタはNGなの知ってるでしょ! ママに言いつけてやるんだから!」


 ぱっと離れて冗談っぽく体をくねらせると、畠さんは慌てたように手を振った。


「ごめんごめん。冗談だよ!」


「もう、気を付けてよね」


 ぷりぷりとわざとらしく怒ったふりをして、畠さんの空になったグラスを手に移動する。と、背後からママの「畠さん、いらっしゃい」という声が聞こえてくる。


 その声でほっとする。きっと畠さんへのフォローはママがしてくれるから、畠さんは今晩も気持ちよく帰ってくれるだろう。


 別にあれぐらいの下ネタ、あたしにはどうってことないのだけど、ある程度のところで線引きしておかないと女性店員にまで同じような振る舞いをしてしまうお客さんも出てくるから困りものだ。


 一応このお店はキャバクラでもガールズバーでもない健全なバーなので、お客さんによる女性店員へのセクハラはやんわりと注意される。それでも夜のお仕事という体裁上あまり徹底できないのが現状。


 もちろんお酒の絡む夜のお仕事なんだから仕方ないだろ、慣れろ、と言われれることもあるけれど。でもやっぱりこういうことって人によって受け皿の大きさが違うと思うのよね。


ふんふんと鼻歌交じりに洗い物を手にバックへ行くと、洗い物をしていた子があたしの気配に気づいてこちらを振り向いた。


 半年ぐらい前からこのバーの皿洗いとしてバイトしている大学生の真奈だ。もともとはあたしが昼間に働いているカフェでバイトをしてたんだけど、お金のかかる趣味を持っている彼女に相談されて、カフェより少しだけ時給の良いこのバーを紹介したのだ。


 最初はフロアスタッフとして雇われたものの、度重なるお客さんからの悪質なセクハラに一度盛大にブチ切れてしまい、それ以来彼女は完全な裏方に徹している。


「禅ちゃん、今日早上がりでしょ? この後付き合って!」


 手は素早く動かしながらも泣きそうな顔であたしを上目遣いで見つめてくる彼女。この子のこんな顔にあたしはとことん弱い。


 もともと男女関係なく綺麗な顔を見るのが好きなあたし。真奈がカフェのバイトとして入ってきた時も、綺麗な子が入ってきたってルンルンしたのを覚えてる。もちろん恋愛感情抜きで。


 でも彼女、見た目と違って中身が割とガサツなのよね。まあ裏表がなくてそこも可愛いんだけど。


「また彼氏と喧嘩でもしたの? もういい加減別れちゃいなさいよ」


 洗い物を横に置くと、あたしは少しだけ身をかがめて彼女の顔を覗き込む。


「だってえ……」


 泣きべそをかく真奈は、それでも汚れ物を洗う手を止めない。割れ物が多いので手先は細やかに動いているけど信じられないぐらいの速さ。ほぼ職人の域ね。


「わかったわ。終わったら裏で待っててちょうだい。一緒に夜食でも食べに行きましょ」


 真奈の鼻をつん、と指でつついてウィンク。


 彼女がぱっと顔を輝かせたのを見て、やっぱり可愛いわ、と思っちゃうあたしは、とことんこの子に弱い。


「後でね」


 そう言って足取りも軽くまたフロアへ出ると、馴染みのお客さんを見つけてあたしは満面の笑顔であいさつした。

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