第3話 髭面オネエと衝撃な哀願

 バーの早番の仕事は夕方からの開店作業とバーテンダーとしての通常業務だ。その後、閉店時間より早く上がることができるので、翌日にカフェのバイトがある時によく入れてもらっている。


 でも今日は開店からずっと客足がさっぱり。暇を持て余してグラスをピカピカに磨き、それでも時間が全然進んでいないことにうんざりしながらバックのお酒の在庫でも確認しようとしたところでママがあたしの名前を呼んだ。


「今日は駄目ね。禅、悪いけどもう上がっちゃって」


 あらら、やっぱり。


 頻繁ではないけれど、こういうことはたまにある。仕事を早く終えられる嬉しさ反面、時給でお給料をいただいている身としては辛いとこでもあるわね。


 バーテンダーの制服から私服に着替えて、裏口から明るい通りへと出る。飲み屋の並ぶ立ち繁華街で、呼び込みやキャッチを軽くかわしながらぶらぶらと歩く。


 最近取り締まりが厳しいとはいえ、夜になると平日でもなんだかんだ賑やかよね。


 人通りが多ければ綺麗な子がいる確率も多い。特にキャッチは見目麗しい男子や女子が多いから、声をかけられるのはうざいけど、たくさんいる分には問題ない。


 駅前まで来るとさらにすごい人混み。でも混雑しているところは綺麗な子観察にもってこいのシチュエーション。きょろきょろと辺りを見回していると、「あれー? 禅さん?」という高い声が耳に飛び込んできた。


 聞き覚えのあるその声に一瞬びくりと身を強張らせて、そのまま聞かなかったことにしようかしらと考えを巡らせる。


「やっぱり禅さんだ」


 しかし声の主はあっさりとあたしの右腕をつかまえて顔を覗き込んできた。


「あ、あら。由利ちゃんじゃない。奇遇ね」


 内心で「げっ」と低い声を出しながらいつも通りの笑顔を振りまく。昼間働いているカフェの女子大生バイトの由利ちゃん。件の店長お気に入りで、あたしが昼のシフトを減らす原因になった子だ。


「こんなところで禅さんに会えるなんて嬉しい! 何してるんですか? あ、もしかして夜のバーのバイトってここら辺ですか? どのお店ですか? 今度遊びに行きたいな。禅さんのバーテンダー姿、絶対かっこいい! ところでこの後空いてますか? 実は友達にドタキャンされちゃって暇なんですよ。あっちにご飯がおいしい居酒屋があるんです。結構安いんですよ。友達とご飯食べるつもりだったからお腹空いちゃった」


 うわあ、言いたいことだけぶつけてくるわね。あたしの意思は無視?


 ぐいぐいと腕を引っ張る彼女を空恐ろしく思いながらなんとかその場に踏みとどまる。


「いや、あの、あたし、これから人と会う約束が……」


 苦しい言い訳なのはわかってる。でもこうでも言わないとこの子は諦めてくれそうにないもの。


 たじたじになりながらそう告げると、由利ちゃんは訝し気にあたしを振り返った。


「でも禅さん、今日、本当は十二時までバイトのはずでしたよね?」


 問われて背中にゾワリと寒気を感じる。


 なんでこの子あたしの夜のシフトを把握してるのかしら?


 いえ、そもそもあたし、この子にバーの話をしたことはあったかしら?


 昼間の仕事仲間であたしが夜に働いているのを知っているのは限られた親しい人たちばかりのはず。


 もしかしてこの子、あたしがここら辺で働いてること知ったうえで待ち伏せしてた?


 あたしの頭の中で疑問が湧き出てはぐるんぐるんと目まぐるしく回り始める。


 あら、これって結構やばいやつ?


 頭の中で危険信号が灯った瞬間、あたしは無意識に彼女の腕を振り払った。


「バイト早めに上がらせてもらったからこれから彼女のとこに行くのよ。ごめんね。じゃあ」


 早口にそんな嘘をまくし立ててその場から小走りに立ち去る。


 ちらりと由利ちゃんを振り返ると、その場に立ち尽くしたままあたしのことをまっすぐに見る彼女の暗い目にまたぞっとした。


 うわあ。どうしよう。明日もカフェでバイトなのに。あの子シフトに入ってたかしら?


 思い出そうとしても思い出せない。シフトが誰と被っているかなんて普段からあんまり気にしていないのよね。


 そのまま駅構内に駆け込んで、ちょうどホームに入ってきた電車に身を滑らせると、あたしはようやくそこでほっと息をついた。


-----


 早めに上がらせてもらえたとはいえ、もう真夜中に近い。最寄りの駅からマンションまでの道で誰とすれ違うこともなく、ただひたすら静かに暗い道を歩く。


 こうやって歩いていて、ふと振り向いたら電柱の向こうに人影、なんて怪談あったわよね。


 思いながら恐る恐る後ろを振り返って、そこに誰の気配もないことにホッとする。


 由利ちゃんがついて来てるんじゃないか、なんて心配は杞憂に終わったみたい。


 それでもようやく見えてきた我が家に知らず足が早まる。


 明日は朝からカフェのバイトだし、今日は早めに寝ないと。ああ、でもこんな嫌な気分の夜には撮り溜めてるバラエティでも見て気晴らししたいわね。どうしようかしら。悩ましいわ。


 考えていると、頭上でばさりと鳥が羽ばたくような音。つられて見上げると頭上から何かが舞い落ちてくる。


 花びら?


 真っ暗な空からひらひらと舞い落ちてくる何枚ものそれらは何だかひどく幻想的だ。立ち止まったまま目を奪われていると、それはあっという間にあたしの眼前に迫ってきた。


 あ、違うわ。花じゃない。これ、紙だわ。


 気づいた瞬間、空を見上げていたあたしの顔面に紙の束が直撃する。振り払うように頭を振ると、それは地面へと落下した。


「あら、これ……」


 よく見ると白い紙上には何かのラフ画が描かれている。デザイン画ね。


 雑な人型が描かれた数枚を拾い上げながら、どこから落ちてきたのかとまた頭上を見上げる。と、窓が開けっぱなしのマンションの一室からもう一枚、ひらりと紙が舞い落ちた。


 あの部屋って、お隣さんじゃない?


 最後の一枚を拾い上げてもう一度、頭上の窓を見上げる。一階から順に数えていくと、やっぱり五階だ。間違いなくあたしのお隣さん。


 そういえばお隣さんがどんな人か知らないわね。数か月前に引っ越してきたみたいだけど、特に挨拶もなかったし。ご近所付き合いしたくない人もいるわよね、と気にすることなく過ごしていたんだけれど。


 もう一度手の中のデザイン画を見下ろす。描かれた人型はその線から男性だとわかる。


 まさか窓から捨てたわけではないだろうし、お届けしたほうがいいわよね。


 今日はいろいろあって疲れているし、正直面倒くさいけれど、もしも大事なものなら大変だものね。


 こういうのを放っておけないお節介はあたしの昔からの性分。もう治るものでもないと自分の思うままに行動するまで。


 紙の束を手にエレベーターへ乗り込み、五階まで到着すると自分の部屋を通り過ぎてお隣さんへ。表札を見上げて「片田」の文字を確認する。


 お隣さんは片田さんっていうのね。


 呼び鈴を鳴らすとしばらくの沈黙の後、インターホンから小さな声で「はい?」と返事が聞こえてくる。片田さんは女性なのね。一人暮らしかしら。


「あの、わたくし隣の早瀬と申します。片田さんの落とし物を拾ったのでお届けに来たのですが」


 ちょっと余所行きの声でそう告げると、向こうからガタッと何かが落ちる音がした。


「あ、は、あの、お待ちください……」


 さらに小さくなった声に眉を上げ、言われるままにドアの前でバカみたいに突っ立ったまま待つ。


 少しの間を置いてドアがゆっくりと開かれたのを確認すると、あたしはなるべく中を覗かないように気を付けながらドアの陰からひょいと顔を出した。


「こんばんは」


 愛想よく声をかけると、体のサイズに合っていないダルっとした部屋着姿の小柄な女性が、あたしを見上げておどおどと目を揺らす。


「あ、あの……」


 あら、この人。


 ばさばさに伸ばしっぱなしの前髪と彼女のその目の動きに見覚えがある。一瞬だけ考えて今朝の出来事を思い出し、「あ」と声を出すと彼女がびくりと身を震わせた。


「あなた、朝の、あれ、一階で、ロビーで何か探してたわよね? ちょっと待ってて!」


 彼女の反応なんてお構いなしにあたしはそれだけ言い残すと大急ぎで自分の部屋に戻って、下駄箱に置かれた写真をつかんだ。


「これ、これ落としたでしょ? 今朝拾ったのよ」


 ずい、と彼女の目前に写真を突き出すと、彼女はそれを見て目をぱちくりさせ、動揺したようにしきりに手を動かす。


「あ、あの、え……と……」


 差し出された写真に触れることもせずにただおどおどする彼女を不審に思いながら、あたしはもう一度写真を自分の目の前に持ってきた。そうしてようやく冷静になる。


 もしかして違ったのかしら。もしも違ったら、あたしってばいきなりほぼ初対面の若い女性に下着姿の男性の写真を見せつけてる変態ってことにならない? これってセクハラになる? 犯罪だとしたら罪状は何かしら? 新聞の見出しは「髭面マッチョのオネエ、隣人に夜な夜なセクハラ三昧」とかかしらね。……新聞っていうか週刊誌の見出しね、これ。


 妙に冷静に考えを巡らせていると、目の前の彼女が遠慮がちにあたしの手の中の写真に触れた。


「あの、すみません、わざわざ……」


 うつむかせた顔が耳まで真っ赤だ。可愛らしい。


「あ、いいえ。良かったわ、見つかって」


 本当に良かったわ、勘違いじゃなくて。これで痴漢にならずに済んだと胸を撫でおろす。同時にこんなおとなしそうな子でもこんな男がタイプなのかしら、と下世話な興味も湧いてくる。


「あとこれ。窓から落ちてきたわよ。大事なものじゃなあい?」


 もう片方の手に抱えた紙の束を差し出すと、彼女は驚いた顔をしてあたしを見上げた。


「窓が開けっぱなしになってて、ちょうどあたしが帰って来たときに上から降ってきたの」


 黒の中にひらひらと舞い散る白。


「一瞬、花びらが落ちてきたのかと思ったわ」


 その光景を思い出しながら笑うと、彼女は不思議そうに首をひねった。


「花じゃなくて紙です」


 その無機質な声にがくっと肩が落ちる。


「わかってるわよ」


 はあっとため息をつくと、さっきまでの恐々とした目つきとは打って変わって彼女がまっすぐにあたしを見つめていることに気づく。


 前髪で隠れているけれど、丸くて大きな黒目があたしを値踏みするように射貫いているのだ。


「ええっと、用はそれだけだから、お邪魔しました」


 なんだかその視線に居心地が悪くなって、愛想笑いを残して体の方向を変える。


「わざわざありがとうございました。いろいろとご迷惑をおかけしました」


 彼女が深々と頭を下げたのを横目で確認して、「それじゃ」と言い残し自分の部屋へ帰ろうとあたしが足を踏み出したとき、何かがあたしを引っ張った。


 何ごと?


 驚いてまた振り向くと彼女が頭を下げたままあたしの服の裾をがっちりつかんでいる。


「迷惑ついでにお願いしたいことがあります」


 視線を上げた彼女が、どこか思いつめた表情で肩に力を入れたのが伝わってくる。


「な、にかしら……?」


 嫌な予感がするわ。


 彼女の迫力に気圧されながら、あたしが上半身だけ少し引くと、彼女は逆にあたしの胸に縋りつくように身を寄せた。


「あなたの下着姿を見せてください!」


 真夜中だというのに朗々と響き渡ったその声に、あたしは思わず目を見開く。


「はあああ?」


 彼女の声よりさらに大きく響いたあたしの声が、夜空の月の向こうに消えていった。

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