行き場のない2000字
わたぬきふる
第1話
「ずっと伝えたかった」
耳に届いた自分の声が、なんだか知らない人の声みたいだった。
生暖かく湿った風が、君の髪を梳かしてはおずおずと離れていく。
乱れた前髪を直さずに、君は俯いた。
「私はずっとずっと、君のことが……」
勝手に声帯が震えて、するすると言葉を紡いでいく。
この日を想像して何回も練習していたから、すっかり口が覚えていた。感情を乗せる前に口から出ていく言葉をぼんやりと聞きながら、私の1年と9ヶ月が終わっていくのを感じた。
私は自分でこの心地良い関係を壊しにかかっているのだから。
穏やかな春の日だ。
筒を握る手がじっとりと汗をかいていることに気づいて、右手に持ち替えた。開いた手のひらに触れる風がひやりと冷たかった。
遠くのほうから賑やかな声が聞こえる。
そういえば、このあとクラス皆で駅前のカラオケに行くって、委員長が話してたっけ。
あとで行くって言ったけど、教室でまたねって手を振ったあの時がたぶん、皆との最後だったんだろう。
もう会うことはないだろうな。
もしかしたら、いやきっと、君とも。
まだ少しぬかるんでいる地面に、ローファーの先がぐっと沈んだ。
ああダメだな、雨はもう止んだのに。
昨日たくさん降ったから、今日はもう降らないはずなのに。
今日はずっと、晴れがいいのに。
ぬるい雨が顎の先から、ぽたり、ぽたりと滴った。
ぼやけてしまって君がよく見えない。
よく見えないのに、それでも、どんな表情をしているのかわかってしまう。
だって君のことだから。
生暖かく湿った風が頬を這い、首を絞める。
ぐずっと啜った鼻の先で微かに、土と桜と陽だまりが混ざった匂いがした。口の中がしょっぱかった。
目を閉じれば、穏やかな春だ。
まるで全部が嘘みたいに。
*
白い日差しが眩しい。でも寒い。
春なんて探してもどこにもいない。
電車の中は空気が蒸れていて、さっきまで凍えていた身体が火照るのを感じた。
イヤホンを耳に刺したままコートを脱ごうとして、コードが絡まって、結局耳から外す羽目になった。
イヤホンをとると、外の世界の音が入り込んでくる。
電車の揺れる音、車内のアナウンス、誰かの咳、小さな話し声。
日常だ。
どこにでもある、どこかの誰かにとってはありきたりで、のろのろと過ぎていく1日。
時間の流れが遅くて退屈だという人がいるけど、私からすればいっそ代わってほしいくらい。
マスクの内側でため息をついて、イヤホンを耳に押し込んだ。
もしもイヤホンに根が生えたら。
耳の奥に深く絡みついて、そこから聞こえる優しい音だけが、私の日常になればいい。
そのまま一生、取れなければいい。
まだ鮮明なままの春の匂いと温度が、どうにも苦しかった。
今日もあの夢を見た。
初めからおしまいまで、いつも同じ。
なぞるように繰り返し繰り返し、もう何度も見た夢。
夢なんてすぐ忘れてしまうのに、この夢だけは目が覚めても、不思議と覚えている。
必然的に、いつか来るその日のことばかりを考えてしまう自分がいた。
その日を迎えるのはそう遠くないことも、時間が私を待ってはくれないことも、頭では理解している。
心が伴うまでには到底時間が足りないことも。
*
駅から学校へ向かう通学路でばったり会った君は、何の警戒もなく私に飛びついてきた。
あったかくて、小さくて、やわらかい。
柔軟剤のいい匂いがふわっと鼻腔をくすぐった。
わけがわからないくらい可愛い笑顔で見上げられて、胸がきゅっと締め付けられる。
ああ、ほんとにずるい。
イヤホンを片方外して、私は君にそっと微笑んだ。
「おはよ~!」
空いた耳から、大好きな声が飛び込んでくる。
つくづくこれが、私が
優しいだけの世界じゃ、君の声は聞こえないから。
ねえ。あと何度、こんな朝を繰り返して、あの夢を見たら。
お別れがくるんだろう。
無邪気にくっついてくる君を、ぎゅっと抱き締め返した。
ブレザーが冷たくて、やわらかい髪もちょっと冷たかった。カーディガンは君の匂いが濃くて、くらくらした。
私の頬に、赤くて小さな耳が触れる。
腕の中で息づく、世界一可愛いこの生き物は、私が守りたい。
陳腐な台詞だけど、やっぱり好き。
大好きで愛おしくて、誰よりも大切だよ。
卒業しても、大人になっても、ずっと一緒がいい。
今まで君に何度も伝えた「好き」とか、「結婚しよ」とか、全部冗談じゃないんだよ。
ふざけてフリして誘ったデートも、渡したバレンタインのチョコも、実は結構緊張したんだよ。
たまに素っ気なくしちゃうのも、本当は嫌いなんかじゃなくて好きすぎるからで。
なんでもないことでメールしたのは、君ともっと話したかったから。
君に恋してから、なかなか眠れなくてひとりで曲を聴いては、涙が流れて止まらないんだよ。
でもね。
「ん、おはよう」
夢の中で君が笑ってくれていたことは、一度もないの。
ねえ。これを読んでる君は今、どんな表情してる?
私のこと好きすぎじゃんって、呆れてでもいいから笑っていてほしいよ。
行き場のない2000字 わたぬきふる @nome
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