第13話 君だけの場所

「おかえり、清瀬」


 縁側でひなたぼっこをしていた狐太郎が、ぱたりぱたりと尻尾を振りながら声を掛けてきた。


に強制返却されてきたとは。早速何かやらかしたのか?」

「別に、何も。一聖様好き好き女に噛じられそうになっただけ」

「げ! 緋呂巳と会ったのか。あの女は執念深いからな。おぬしも大変だな」

「相手に不足無し。楽しみだ」

「……」


 なんだろう。要三郎殿と同じ眼差しで溜息をつかれたぞ。


「まあ、私の安眠を妨害しないところでならよいぞ」


 狐太郎はそう言うと、またうとうととまどろみ始める。ふわふわと上下するまあるい背中に抗えず、清瀬はそうっと近づくとするりするりと撫で始めた。

 ふにゃふにゃと言葉にならない声をあげて蕩けゆく狐太郎の顔を眺めながら、この後どうしようかと思案しているとお腹がぐうっとくぐもった音をたてた。


「もう昼時か……」

「まあ、奥様いつの間に」


 絶妙なタイミングでやってきた千登勢が、「昼餉の支度はできていますよ」と声を掛けてくれる。今度は清瀬の顔がふにゃりと緩んだ。


 腹が減っては戦ができぬ。まずは腹ごしらえだ!



 千登勢の料理はどれも美味しい。ふっくら甘じょっぱい里芋を次々口に放り込みながら、ふと、嬉しそうに微笑む千登勢の姿に気づいた。


「あの、千登勢さんはもう召し上がられたのですか?」

「滅相もございません。私は後でいただきますのでお気遣い無用でございます」


 確かに。形の上では主人と使用人の関係なのだろう。でも……と思う。


「千登勢さんは、一聖様にとって実のお母上と同じくらい大切な方だと思います。たった一日ですけれど、見ていてそう思いました。だから……私も母上と思ってもよろしいでしょうか?」


「奥様……」


 千登勢の瞳が驚きと喜びで見開かれ、みるみる潤みだした。


「そんなもったいないお言葉……」

「これから昼餉は一緒にいただきましょう。そのほうが楽しいと思いますので」

「なんてお優しい。ありがとうございます」


 上下の壁が厚い時代。だが逡巡しつつも、清瀬の力強い瞳に心を決めたようだった。


「では、お言葉に甘えまして」

「わーい。嬉しい。善は急げといいますからね。早速千登勢さんの分も持ってきましょう」


 子どものような声をあげた清瀬はさっさと腰を上げて台所へと歩み出す。食べている最中にお行儀が悪い、そんな言葉が野暮に思えるほど奥様は情が深いのだと、そんな方が坊ちゃまの奥様で本当に良かったと、千登勢は深く感謝したのだった。

 

 

 夫婦となって初めての一日は瞬く間に過ぎていった。

 黄昏時、淡い光と共に帰宅した一聖を、千登勢と共に玄関先で迎える。


「おかえりなさいませ。旦那様」


 ふふふ。随分と滑らかになってきたな。何事も繰り返せば慣れるものだ。


 ドヤ顔で一聖の顔を見上げれば、瞳をきらきらさせて喜んでいる。


 なんか……撫でまわされて喜んでいる狐太郎と同じ顔に見えてきた……


「おお、いいね。旦那様。やっぱりいい響きだ。思ったより早く慣れたじゃないか」

「はい。お陰様で」

「じゃあ、もう一段階進もうか」

「え? もう一段階?」


 外套と帽子を千登勢に渡すと、清瀬の両腕に手をかけ立ち上がらせた。


「そう、もう一段階」


 そう言ってぽふっと抱きしめられる。


 え!


 固まる清瀬。

 

 な、な、な、何!


 上り框の高さの差が丁度二人の身長差を埋めてくれる。そのため一聖の顔が清瀬の顔の直ぐ隣にあった。ぶわりっと一気に頬が熱を持つ。

 ふふっと余裕たっぷりに笑いながら一聖が解説を始めた。


「これは異国の挨拶の仕方だよ。ハグと言って、敵意の無いことを示すために軽く抱き合うんだ。時には、頬に接吻をするようなこともあるしね」

「せ、せ、せ、接吻!」

「そう」


 面白そうに覗き込んでくる一聖。必死の抵抗をと顎をひく清瀬。


「要三郎から聞いただろ? 私は大学の教授だからね。同僚は異国人が多いんだよ。時には互いの家に招き合って夕餉を馳走し合うなんてこともあるからね。これから慣れてもらわないと」


 こ、こんなことに慣れろと!


 初対面の男に抱きしめられるなんてこと、許されることなのか!

 貞操の危機だろう!

 しかも人前でこんな……こんな……


 文句を言ってやろうと思ったが、緊張で声にならなかった。ぱくぱくと口を動かしながら空気だけを飲み込む。


「異国人と対等に付き合うためには、異国の文化を知らないといけないからね。と言っても、直ぐに慣れるのは難しいだろう? だから、これから毎日練習しようね」


 あ……こいつ、おもしろがっているだけだな。


 一聖の嫌味なくらい上機嫌な笑顔に、一気に冷静さを取り戻した清瀬はすっと体の力を抜いた。

「おや、もう慣れましたか?」


 敏感に察して目を丸くする一聖。


「つまらないな。からかい甲斐がなくて」


 まったく、失敬な奴だ! 


 笑いながら体を離した一聖が、急に真面目な顔になる。

 

「でも、ハグと言うのは本当ですよ。まあ、無条件に異国の習慣を受け入れるのもどうかと思いますが、知っていることは大切なことですので。覚えておいてくださいね」


 どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか皆目わからない奴だ。

 

 ようやく体を解放されて、ほうっと安堵の息を吐き出した。 


 

 そして、本日最大の試練を前に、清瀬はぐっと丹田に力を入れた。


 ううう……結局、誰にも何も聞けなかった……


 二つ並んだ布団。横で書物に目を通している一聖。

 沈黙が怖くて頭に浮かんだことを端から話し出した。


「そういえば、今日旦那様のことが大好きな蛇女に齧られそうになりました」

「おお、緋呂巳に会ったのか。それで、どう思ったんだい?」

 一聖が嬉しそうに身を乗り出してきた。


 ん? なんでそんなに嬉しそうなんだろう?


 訳が分からずに思ったままを答える。

「丁度良い稽古相手を見つけたと思ったのですが、要三郎殿に邪魔だと言われまして。一戦交えることができなくてとても残念でした」


 がーんと頭を殴られたように白目を剝きかける一聖。縋るように言いつのる。


「それは……当然彼女を倒して、私から手を引くように言い渡そうと思ってのことだよね?」

「別にそういうことでは……最近稽古の時間が取れなかったので体がうずうずしていただけのことです」

「そんな……はずは……まったく清瀬は照れ屋だな。いいのだよ。もっと己の心に素直になりなさい。嫉妬心をさらけ出すことは決して恥ずかしい事では無いのだからね」

「嫉妬?」

「ああ。隠すことはないぞ」

「嫉妬……誰に?」

「……」


 そこまで言葉を交わして、鈍い清瀬もようやく気付いた。


 ああ、これは……失敗した!


 完全に気落ちしている一聖の顔を見て、先ほどの仕返し、いい気味だと思いつつも、少しばかりの申し訳なさが沸き上がる。


 そうだよな。普通、妻なら心配になったり頭にきたりするものなんだろうな。


 とはいえど、覆水盆に返らずだ。罪悪感がチクリと胸を刺し、清瀬にしては珍しく言い訳がましい言葉を口にした。


「嫉妬も何も……私はまだ旦那様のことをよく知らないので……」


 すうっと顔をあげた一聖。


「ならば大急ぎで知り合おう」


 ぱたりと横になると、ぽんぽんと胸元辺りの布団を叩いた。その瞳が、口元が嬉しそうに弾みだしている。


「おいで」

「えっと……」

「ほら、早く」


 怖気づく心に鞭打って、おずおずと隣に横たわる清瀬。だが、自ら体を寄せる勇気は無くて、拳二つ分くらい離れたところだ。


「もっと、近くへおいで」


 ぐいっと引っ張られて、ぎゅっと抱きしめられた。


 ああ……どうしよう! 昨夜と同じことになってしまった。

 で、この先どうなるんだ?


 暴れ出す血流が清瀬の体温をあげていく。鼓動が素肌を波立たせる。


 清瀬の緊張をほぐすようにふっと一聖が力を抜いた。慈しむように滑らかな黒髪を撫で始める。

 

「やっぱり清瀬は温かいな」


 私も、一聖殿の温もりが心地よい―――


 一聖の言葉に、清瀬の感覚が戻ってきた。一聖を感じて不思議なほど安心感に包まれる。


「ここは清瀬だけの場所だよ」


 包み込む柔らかな低音がそう言った。


「旦那様……」

「私の胸は君のためだけにある。他の誰も入れることはできないんだよ。それをちゃんと覚えていて欲しい」

「……はい」



 こうして、公私共に、心身共に、清瀬は一聖の懐刀となっていくのだが。



 抱きかかえられた刀は今夜もそのまま夢の中―――



『第一章 世間はこれを玉の輿と言う』 了



  

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