第9話 狐太郎
ひと月ほど前までは、毎朝一番に道場で素振りの稽古をしていた。
それは幼い頃から欠かさず続けてきた鍛練。
道場出禁になってからも、自室でこっそり続けてきた。習慣とは恐ろしいもので、もはやそれをしなければ体が不調となるからだ。
それが……婚礼の疲れと一気にきた気のゆるみのせいで崩れた。
ああ、今何時だろう?
陽の光が温かい。気持ちいい。もっと寝ていたい。
初めて身を任せる怠惰な世界。その指先に不思議な感触を得て、無意識に触りまくる。
なんだろう? 柔らかい。
ぐにゃぐにゃと餅のようによく伸びるし、ふわふわしていて気持ちいいな。
あはは、面白い! えい、えい。
左右に引き延ばし、撫でまわし。あまりの気持ち良さに抱きしめた。
すりすりと頬ずりをしようとして、おでこにぷにっとつっかえ棒が添えられたのを感じて目を開けた。
うーん。残念……って、え! 今何時だ!
ようやく意識が覚醒。慌てて跳ね起きた。
横を見やれば一聖はもう影も形もない。
まずい。旦那より遅く起きる嫁ってのは。
初日からやらかした!
慌てて立ち上がろうとして、ふと抱え込んだ存在に目をやる。
「ん? 狐?」
「いい加減離せ! 小娘」
こちらを見上げた赤い目、尖った耳、突き出した口元。そこから発せられた聞き慣れた言葉。
空耳では無いようだな。狐が人間の言葉をしゃべっている。
緩んだ指先からぴょんと飛び降りた子ぎつねは、じろりとこちらを見上げて続けた。
「我が名は
「え……これからも撫でまわしていいのか?」
その言葉に、カッと目を向いた狐太郎。
「撫でまわして良いとは言っていない。私に触れることを許可してやると言っているのだ。私は由緒正しき妖狐族の長。本来なら人間ごときにやすやすと触らせはしないのだがな。そなたのツボ押しはなかなかに気持ちが良かった。ゆえに特別に許して進ぜよう。その代わり、大いに私を癒すように」
「おお! ありがとう」
何の恐れも見せずに素直に喜ぶ清瀬。それを拍子抜けしたような顔で見上げる狐太郎。
「そなたは変わっておるな」
「そうか?」
鼻歌まじりに素早く狐太郎を抱き上げると、再び撫でまわし始めた。
威厳を保とうと必死だが、顔も体も既にふにゃふにゃに蕩け始めている狐太郎。
「いくら視える者と言っても、普通はもう少しくらい驚くものだ。だが、お前から恐れの感情は伝わってこなかった。肝の据わったやつだな」
「それは狐太郎が可愛いからだ」
「うぇ」
慌てて逃げ出そうとした狐太郎を引き戻してはもみほぐし撫でまわしていると、音もなく襖が左右に割れて、一聖が顔を出した。
「おはよう。清瀬」
「あ……おはよう、ございます」
昨夜の色々なことが頭を過り頬が熱を持つ。慌てて狐太郎を掲げて顔を隠した。
「もう狐太郎と仲よくなったのか」
尻尾でパサリと清瀬の顔を一撫で。するりと抜け出すと一聖の元へひとっ飛びした狐太郎が上から目線で言う。
「一聖。この新人気に入ったぞ」
「それは良かった。狐太郎に紹介する手間が省けたようだな。嫁の清瀬だ。これからよろしく頼む」
「嫁ごか。なるほど……って、お前の
「あはは」
二人の会話にピクリと眉を動かした清瀬。すくっと立ち上がるとテキパキと
なるほど。あの妖弧は昨夜一聖殿が言っていた『好奇心旺盛な情報屋』の一匹なんだろう。
と言うことは、これからも触りたい放題ってことだな。
引き締まらない笑みを浮かべた清瀬を面白そうにしばらく眺めてから、本来の目的を告げる一聖。
「朝餉だよ。一緒に行こう」
一聖の背を追うように歩けば、清瀬の後ろから狐太郎も尻尾をフリフリ付いてくる。
「狐太郎も一緒に朝餉を食べるのか? 好物はやっぱり油揚げなのかな?」
「人間の心臓」
「え!」
流石に顔をひきつらせた清瀬。やれやれと言う顔で一聖が振り向いた。
「狐太郎、そういう戯言はいただけないな」
「やーい。やっと清瀬を驚かすことができたぞ」
「……」
妖狐族の長とか言いながら、随分と子供っぽいヤツだな。
清瀬はふうんと言う顔で狐太郎を見た。
「我が道場の近くに、物凄ーく美味しい稲荷ずしの店があったから買ってきてやろうと思ったのだが、嫌いなら仕方ない。残念だ」
「何! 美味しい稲荷ずしだと!」
狐太郎の口から早くもヨダレが垂れ始める。
ほらな。ちょろい奴め!
してやったりとにやけた清瀬にも、すかさず一聖が一言。
「本当は清瀬が食べたいだけだろう」
「別にそう言うつもりでは……」
「ならその口の端に付いているのはなんだ?」
「え!」
慌てて口を拭った清瀬をにやにやと見やる一聖と狐太郎。
くそっ! 騙された!
悔しそうな清瀬を宥めるように真面目な顔に戻す。
「今度、義父上のところへご機嫌伺いに行く時に一緒に買いに行こう。でも、今日は無理だ。私は外出の予定が入っているからな。清瀬はとりあえず、我が家のこと、この屋敷のことを
「要三郎?」
「従弟だ。執事としてこの屋敷のことを万事取り仕切ってくれている」
「あ、思い出した」
昨日、一言だけ挨拶を交わした若い男性の顔を思い出した。
勉強か……気が重いな。
千登勢が用意してくれた朝餉は、どれもこれも優しい味がする。仕度をしないでも食べられる幸せをしみじみと感じて、顔がほころびっぱなしだ。
「美味しい……千登勢さん、ありがとうございます」
心からの謝辞を述べれば、嬉しそうに笑った千登勢が意味ありげに一聖と清瀬の顔を見つめてくる。もう一度ふふふっと嬉しそうに笑った。
昨夜は一緒に寝たけれど、本当の意味では寝ていない……
でも、わざわざ本当のことを言う必要も無い……はず。
急に胸がつかえたような気がして咳き込んだ。
「あらあら、奥様大丈夫ですか!」
その時、駆け寄ってくる千登勢の足元を、狐太郎がうろちょろしているのが見えた。
あ、危ない!
思わず声を上げそうになって、そうだった、千登勢には狐太郎が視えていないのだと思い出し言葉を飲み込んだ。
案の定、千登勢は何事もなく歩みを進めてきたし、狐太郎は面白がって障害物除けの遊びをしているだけらしい。
視えないってことは、こう言うことを言うのだな!
まあ、どちらも干渉せず、怪我もしていないのだから、問題ないのか。
「大丈夫ですか?」
背中をさすってくれる千登勢に、にこりと笑顔を返した。
「千登勢さん、大丈夫です。ありがとうございます」
その様子を黙って見ていた一聖。目には穏やかな光が満ちていた。
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