第3話 猫又の思慕
突然暗闇から湧き出したように見えたのは女だった。胸元を大きく
ああ、夜のお誘いをしに来たんだな。
まあ、普通に考えれば、目の前の男は美男だしお金も持っていそうだしな。
後は二人でお好きなように!
そう思った清瀬が背を向けて去ろうとしたところで、徐に腕を掴まれて飛び上がりそうになった。
「ちょいと、そこの旦那」
あろうことか、女は
「え? だ、だんなって?」
なぜ私に? あ、そうか。男袴だからか。
でも、なんであいつを素通りして私のところへ来たんだ?
納得がいかなくて困惑する。
「旦那、ちょっと寄って行きませんか? 極楽を見せてあげますよ」
「手を離せ。私はそういうことには興味が無いのだ」
「もう、ツレナイ。お金なんていりませんよ」
「金の心配なんかしていない」
こんな女の手なんて、振り払ってしまえばいいと分っているのに、なぜかそれができない。金縛りにでもあったように、体が硬直して冷え冷えとした冷気が背を駆け上がってきた。
な、なんだ? これは?
目の前の夜鷹は、とろんとした瞳を近づけてくる。
この私が女の細腕に負けるはずはない。もしかして……
その時、クツクツと男が笑い出した。
「いやあ、やっぱり男前ですね。みんなあなたの魅力に抗えない。まるで猫にとっての
「はぁ?」
「これは失敬。ついつい嫉妬してしまいました」
なんていけ好かないヤツ!
「猫又にまで見初められるとは、罪つくりな人だ」
「な!」
その言葉に反応した目の前の女がぎろりと彼の方を見た。
「邪魔する気かえ? こわっぱ」
「別に邪魔するつもりは無いんですけれどね。この人は私の大切な人なので、むざむざあなたの餌食にしたいとは思いませんね」
た、大切な人って、どういうことだ?
いつの間にそんなに親しい間柄になったんだっけ?
目をむいて男を見れば、涼しい顔で笑っている。
誰が、助けてくれなんて言うもんか!
清瀬は口をへの字に曲げて押し黙った。
これで合点がいった。目の前の女は猫又。つまり妖怪ってことか。
彼女の手を払えないでいるのは、
ふぅーっと息を吐いて、精神を集中させた。
あやかし相手なら、心刀が必要になる。
「あ、この程度のあやかしなら、私一人で大丈夫ですよ。大方、大好きな飼い主と死に分かれて彷徨っているのでしょう」
そう言って男はひゅるりと笛を吹き始めた。
そう言えば、この間もあの笛の音で妖怪を弱らせていたっけ。
女が悔しそうな顔になる。掴む手が緩んできた隙を逃さずに引き抜いた。
「どうか、どうかもう少しだけ傍にいてくださいな。旦那」
切ない瞳で見上げらたら、流石の清瀬も気の毒に思ってしまう。距離を取るべきと分っていても動けなかった。再び縋りついてきた手を振り払うか迷いが生まれる。
「同情は悪手です!」
静かだが有無を言わさぬ声が清瀬を制した。
「!」
間一髪。心刀を振り下ろすことでなんとか振り切る。
「良い判断です!」
今度は容赦ない鋭い笛の音が、女の動きを封じに向かう。心刀の圧で後ろへ倒れ込んだ女は、なす術もなく掴まってしまい形相を変化させた。
「おのれこわっぱ! 我が想いを邪魔するとは、末代まで祟って……」
「浄!」
素早く指先を一閃して唱えた男。光の粒と化した女。
「ああ……」
焦って己の体を搔き集めるように悶えた猫又だったが、恨みの言葉は途中で途絶えた。諦めたような笑みを浮かべ、ポロリと涙を一滴。
それも、光の粒となって暗闇へと消えていった―――
「死んだ……のか?」
清瀬の問いに、ふわりと微笑んだ男。
「好きな人と同じ世へ送ってあげたんですよ。だから心配しないでください。きっと、また一緒に過ごせるはずです」
彼女が消えた暗闇へ向けた眼差しは、とても優しかった。
……そんな顔もできるんだ。
予期せぬ反応に、思いがけず心がほっこりとする。
清瀬はほうっとため息を吐くと、体から力を抜いた。
「お疲れ様でした。それにしても、本当に
そう言ってまたクツクツと男が笑う。
「私では無くて、あなたに付いてきたのですよね? 私は巻き込まれただけです」
本当はいい人かもしれないと思ったことを後悔した。清瀬は憮然とした表情に戻ると、ぺこりと頭を下げて踵を返した。
「気分を害すようなことを申し上げてすみません。また何者かが現れると危険ですから、家までお送りしましょう」
「いいえ、結構です。この前も申し上げたが、わが身くらい自分で守れますので」
ぴしゃりと言い返せば、「それは残念」と本気でがっかりしたような声。だが、今回もそれ以上言い重ねることは無かった。
「それではお気をつけて」
「……あなたも」
少しばかり余裕を取り戻してそう労えば、素直に嬉しそうにニコリとした男。
いつの間にか、清瀬の直ぐ傍まで来ていた。
気配が……しなかった!
ゾクリとまた背筋が冷える。
やはり得体の知れない男。危険だ。
「おやすみなさい。良い夢を」
耳元でそう囁くと、固まる清瀬からスッと離れる。くるりと背を向けて片手を上げると、ひらひらさせながら去って行った。
清瀬の野生の勘が捉えた危機の予感。その真の意味を知るのは、それから十日後のことだった。
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