第2話 危険な男

 人通りの少なくなった道を、やみくもに歩きまわる。

 暗闇で男袴姿。これなら安心だ。誰に気を遣うことも無く大股で闊歩できる。


 ずんずんと勢いよく歩いている時、ふと半月前のことを思い出した。


 そう言えばあの時、妙な男に出会ったなと。


『これより、女として暮らすように』


 いきなりそう言い渡されたあの夜も気がおかしくなりそうになって、夜道を歩きまわっていたのだ。


 清瀬は幼い頃より真剣しんけんに慣れ親しんでいるせいか、妖怪や幽霊と言った存在のことを怖いと思ったことは無かった。父の龍成より、真剣しんけんは神気と妖気を纏うものであり、それと共に敵と対峙する力を身につけることこそが、心刀雪花流の奥義であると口を酸っぱくして教え込まれていた。

 そういう人知を超えた存在に敬意を払い、時に宥めすかして己に従わせる。それだけの胆力を身に着けるべく精進を重ねてきていたのだ。

 

 だから、その時も恐ろしいとは思わなかった。ただ冷静に、振り向いて対峙しただけのこと。

 と言っても、廃刀令のせいで腰に得物は下げられない。丸腰の清瀬だったが、そこは鍛え抜かれた精神力で、を形作る。

 暗闇に蠢く、更なる漆黒の影を見つけた時、彼女は咄嗟に心刀しんとうを正眼に構えた。


 影のほうもしばらくは清瀬をじっと観察しているようだった。

 だが、背後から迫る脅威に押し出されるような恰好で、清瀬の目の前に跳ね飛んできた。清瀬は思わず、見えざるを振り下ろす。


「そいつに触れるな! 離れていろ」

 

 穏やかだが凛とした声に、思わず清瀬は声の主の方へ視線を動かした。

 そのために、黒い影の形が変化したことを一瞬見逃してしまった。


 気づいた時には彼女の構えた心刀がずぼりと陰に吸い込まれていた。


 切り降ろそうと力を込めるもびくとも動かない。心の刀はすなわち清瀬自身でもあったので、彼女の足も縫い付けられたように地面から動けなくなってしまった。


 この時になって初めて、清瀬は焦りを感じた。

 このままでは飲み込まれてしまう!


 その時、先ほどの声の主が、ひゅるりと笛の音を響かせた。


 一気に呪縛が解けた。自由になった体を引き抜くと同時に、清瀬は素早く後ろに飛び退る。


「そのまま離れていろ」

 

 暗闇から踊り出てきたのは、背の高いひょろりとした色白の男だった。

 薄浅葱うすあさぎの着流しが闇に浮かび上がる。舞うような仕草で指先を一閃すると、もう一度笛の音を奏で始めた。それは清らかに夜の空気に溶けていく。


 黒い影が苦し気に悶え始めた。ぶくぶくと膨れ上がっては、ぶしゅっと潰れ、泡ぶくのような形状は醜く不気味で虫唾が走る。


 そんな塊に向かって真っすぐに伸びた笛の音。

 突き刺すような鋭い音色が、やがて宥めるように優しい音へと変わっていく。癒されるような響きに包まれて、影は観念したように小さく小さくなっていった。


 笛の音が途切れた瞬間、両手を合わせた男が「滅!」と一声。良く通る声で命令した。

 黒い影はついに姿を消した―――


 呆けたようにその一部始終を見つめていた清瀬。男が穏やかな声で語りかけてくるまで気づかなかった。


「勇敢な方ですね。あのようなものへ立ち向かっていくとは。でも、あなたのお陰で被害が最小限で済みました。礼を申します」


 そう言って頭を下げてから、道端に置いていた提灯を取りに戻る。灯りを掲げて清瀬の顔を見ると、驚いたように「ほう」とため息をもらした。一方の清瀬も、男の顔を見て驚く。

 男にしては色白なきめ細やかな肌。この世の者とは思えないほど儚げで妖艶な美を秘めた顔立ちの持ち主だった。切れ長の瞳に真っ直ぐに見つめられて、心臓がどきりとした清瀬。先ほどの黒い影よりも、この男性の方がよほど危うい気がすると思った。


 魅了される前に逃げなければ、蜘蛛の糸に絡めとられ毒を注入されそうだ!


「これはこれは、お美しい。よくぞあの影に魅入られずにすみましたね。無事で何よりでした」

「いえ、助かりました。御礼申し上げます。それでは、私はこれで失礼します」


 頭を下げて足早に去ろうとすれば、先ほどとは全然違う声音で問いかけてくる。のんびりとした少し舌足らずな甘い声。


「どちらへお帰りですか? 危険ですからお送りしましょう」

「いえ、結構です」

「夜の一人歩きは危険ですよ」

「大丈夫です。私はこう見えて戦い慣れておりますので」

「ああ、なるほどね。先ほどの剣さばきは最高でしたね。寧ろ美しかったです」

「……」


 得体の知れない恐怖を感じる。


 この男、何者?


 先ほどの妖か霊か呪詛かわからないようなモノを退治できたのだから、彼はそれを祓う者なのだろう。だから、私のも見えた。そこは驚かない。かなり強大な霊力の持ち主だと言うことも推測できる。

 

 そのせいか、畏怖の念とは違う、得体の知れない恐怖が沸き上がってくるのを止められなかった。


 この男は剣技でどうこうできるような類の男では無い気がする。何か手に負えない存在。兎に角自分にとって危険な予感しかない。


 君子危うきに近づかずだ!


「失礼する」


 さっさと視線を外して背を向けた。


「えー、残念」


 男は心の底から残念そうにそう言ったが、それ以上清瀬に付きまとうことは無かった。少し離れてから振り返ってみれば、子どものように嬉しそうに手を振っている。


 なんなんだ、あの男!


 清瀬は心の中で軽く悪態をついて、もう二度と振り返らなかった。


 本来であれば神聖な力を有する者のはずなのに、なぜか背中のゾクゾクが止まらないのはどういうことだろうか?


 不思議に思いつつも、もう二度と会わないであろうかの者のことをそれ以上考えるのは時間の無駄だと思った。そうしてすっかり忘れていたのだが、今また夜の町をさまよっていたので、急に思い出してしまったのだ。


 そして、思い出した途端、目の前にその人物が立ちふさがっていることに、驚きよりも先にげんなりとしている。


「おや、またお会いしましたね。美しい方」

「……今日もあやかし退治ですか?」


「はい。気配の強い日にはたいてい。だからまたあなたにお会いしたのも必然かもしれませんね」


 男は端正な顔を綻ばせた。


 氷のように鋭利で儚げな美しい顔が、笑うと案外人懐っこい顔になることに気づいて、清瀬はちょっと拍子抜けする。


 思ったより俗物なのかな? 恐れるには足らないってことか?


 でも、野性の勘が言っている。


 やっぱりこの男は危険だと。


 その時、男の背後でゆらりと白い影が動いた。


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