女剣士、陰陽師の懐刀となる
涼月
第一章 世間はこれを玉の輿と言う
第1話 心刀雪花流道場
古びた道場の空気が一変した。
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返る。
立ち会う二人を取り囲むように、弟子たちが座してその一挙手一投足を見守っていた。
腰を低く落とした筋肉質な男と対峙するのは、スラリとした長身の女性。
ミシリと床が鳴り、二人同時に動いた。
女の結った長い後ろ髪が舞うと同時に、一気に素早い突きが相手に迫る。上段に構えていた男の方は踏み込んで来た彼女の頭上に打ち下ろすだけだったにも関わらず、半ばで胸を押さえて頽れた。
ダン! と大きな音をたてて膝をつく男を見届けてから、女性はぐるりと見回して声をかける。
「次!」
彼女こそ、
だんだんと手を挙げる者がいなくなっていった。
今日の清瀬は超が付くほど機嫌が悪いらしいと悟ったから。
と同時に、弟子たちの側にも微妙な空気が漂い始めた。
女相手に本気になるのは大人気ないと言う中途半端な男気と、そんなか弱いはずの女に負けてしまった口惜しさ、恥ずかしさ。
どすぐらい感情が漏れ出て渦巻き始めている。
清瀬は道場主、
だが、つい先日までは一人息子と認識されていた。どういう事情かと言えば、幼い頃から男として育てられてきたからだ。将来道場を継がせるべく、厳しい稽古と共に、女性としての生き方を全て封印されてきた。だから、清瀬自身も自分は男として生きていくと思っていたし、その気迫のせいか、つい半月ほど前までは、周りも男だと思いこんでいたのだ。
それなのに……今更なんだよ!
清瀬はギリリと唇を噛みしめる。こうやって竹刀に感情をぶつけることでしか昇華できそうにない。まだ足りない。まだまだだと、弟子たちに鋭い視線を投げかけた。
「次! 早くしろ!」
「……」
お前が先に行けと言う無言の押し付け合いをしたのち、弟子の一人が覚悟を決めたように立ち上がった。
「いくぞ」
軽く頭を下げて挨拶を交わした後、直ぐに竹刀を構える。
今度は竹刀を小刻みに動かしながら、足さばきも軽快に踏み込んできた男を、軽く薙ぎ払って吹っ飛ばした清瀬。
「丹田が弱い。そんなことでは力が入らんはずだ」
「参りました!」
男はあっけなく負けを認めて元居た場所へと戻ってしまった。
「気合が足りない。さっさと次!」
「やめーい!」
その時、空気を切り裂くような大音量の声が響く。
「ち、先生」
振り向いた清瀬。一斉に頭を下げる弟子たち。
「今日はそこまでだ。後は私が稽古をする。清瀬は私の部屋で待っていなさい」
弟子たちの顔は、一難去ってまた一難と言う表情。だが、稽古の時間は後少しだったので、最後の気力を振り絞っていた。
仕方なく、龍成の部屋で座して待っていた清瀬。だが、嫌な予感しかなかった。
庭の井戸で汗を流してから入ってきた龍成は、清瀬と向き合うと厳かな口調で問いただしてきた。
「もう、あの道場に出入りすることまかりならんと言い渡してあったはずだが」
父親のいぶし銀のような眼光を臆することなく見つめ返しながら、清瀬は本音をぶつけた。
「父上、横暴です。私は生まれた時から男として育てられ、ゆくゆくは心刀雪花流道場の跡取りとなるべく厳しく育てられてきました。それなのに、いきなり、もう剣術はやってはならない、女に戻れと言われて、はいそうですかと素直に言えるわけがございません。それでも、御父上の言葉は絶対ですから、普段の恰好は男袴から着物へと代えております。立ち居振る舞いも気を付けております。でも、そんな日々は私にとって地獄のように窮屈なのです。せめて、道場で少し体を動かすことくらいお許しいただけないでしょうか?」
「ならぬ。もう、ならぬ」
「なぜですか!」
「嫁入りが決まったからだ」
「はぁ? 誰のですか?」
「お前のに決まっているでは無いか」
言葉の意味を理解するのに、寸刻かかる。
縁談! この私に!
半月前まで男だった私に、いきなり『花嫁』になれだと!
全身を襲うぞわぞわとした感覚を押し殺して、声を絞りだした。
「お断りします」
「無理だ」
「なぜですか!」
「大警視、菱沼様からの話だからだ」
「な!」
ガンっと頭を殴られたような衝撃。清瀬はまたギリッと唇を噛んだ。
東京警視庁の大警視からじゃ断れない……
廃刀令に伴い急速に衰退の一途を辿っていた道場を救ってくれたのは、警視庁からの要請。新人警察官の剣術指導を拝命したからだった。
それを橋渡ししてくれたのは兄弟子の
恭二郎とは幼い頃から共に学んできた。二つ年上だったので、兄弟子。
誠実で実直な恭二郎は昔からコツコツと努力を積み上げるタイプ。その背を追いかけることで、清瀬は強くなった。
追って追って追い続けて、いつか共に道場を引き継ぐことができると思っていた。
いつも隣にいられると思っていた。
例え弟のような存在としか見られていなかったとしても。
男として育ってきたとしても。
清瀬の中に、小さな小さな恋心が宿っていたことを、清瀬自身が否定し続けていたことが、何よりも清瀬の恋を証明していた。
だが、恭二郎が警察官に士官した時は、寂しさや落胆を押し殺して我が道場の誉れと思った。真面目で武芸に優れた恭二郎を気に入った大警視が、心刀雪花流道場を警察官の稽古場として認めてくれたことは、彼の功績だと純粋に誇らしかった。
そして、大警視の口添えで恭二郎が華族の御令嬢と結婚したことも、大出世だと祝おうとしたが―――
無理だった。二度と手の届かないところへ行ってしまった喪失感に打ちのめされた。
だから、今日、道場でうさ晴らしをしていたのだ。
そんなことで竹刀を振るってはいけない。そう教える立場だったはずなのに。
女として生きろ。何を今更。
だったらなぜ、もう少し早く赦してくれなかったのだろう。
せめて恭二郎兄さんの結婚が決まる前に許してくれていたら……共に生きる道もあったかもしれないのに。
言いようのない口惜しさと今更気づく激しい恋心と嫉妬に、清瀬の心は乱れに乱れていた。
それなのに、今度は自分の婚礼だと!
がばりと立ち上がると、制止を振り切って宵闇の中へと駆け出した。
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