第4話

 いつかこんな日が来ると思っていた。



 もう戻れない湖濱こはま柚稀ゆずきとの日々。瞳を閉じれば、いつか一緒に行った湖の情景が脳裏に浮かび上がって来た。目の前に広がる広い広い湖。揺れる髪が浜に吹く風によるものだと思えば、吹きすさぶビル風に紛れて潮騒しおざいが聞こえてくるようだった。


 あの時に二人で話した内容は、本当に他愛のないもの。けれど湖濱こはま柚稀ゆずきは、「景色凄いね」とか、「来て良ったね」とか、そういう何でもないことを全身で興奮を示しながら話してくれた。私は、「うん」とか「だね」とか聞きようによっては素気のない反応を示すことになったが、内心では私も胸が高鳴っていた。


 幸せだった。

 二人で過ごす時間が、永遠に続くと思った。



「ねぇ、蝶花ちょうか!! 夏休みの予定決まった?」

「別に……」



 柚稀ゆずきを監視することかな。そんなふうに心のなかでは呟いていた。黙っていると、案の定「えー? 予定ないの?」と小馬鹿にされたがどうでも良かった。良くも悪くも、予定は〈ヴィアヴァスタ〉が作ってくれる。きっと夏休みは名ばかりで、暇な日はないのだろう。――もとより、そんなものは必要ないのだが、と考えたところで私は湖濱こはま柚稀ゆずきと目が合った。



「予定。無いんなら作ってあげよっか!?」

「は? はぁ?」

「今度はさ、パン屋行こうよ!! オススメの美味しい場所があるんだー。それから、祭りも行こ? 花火も見よ? それから、それから……」

「やりたいこと、沢山あるんだね」

蝶花ちょうかはやりたいこととか無いの?」



 そう訊かれたのを覚えている。そう言えばあの時、私は何って答えたんだろう? 「無いよ」なんて言ってしまえば、夏休みの真っ白な予定表が一瞬で真っ黒になる気がして、適当な返答でやり過ごそうとしたんだと思う。果たして、何と答えたんだったか……。



「……星」

「?」

「星が、見たいな」




 *****




「どったの? こんな時間に」



 よく来てくれたね、というのが湖濱こはま柚稀ゆずきに対する最初の感想だった。昼間と何も変わらない屈託のない笑みを浮かべて、濡羽ぬれば色の髪を揺らして近づいてくる彼女に、思わず私は次に言おうとしていた言葉を失ってしまう。


 廃ビルの屋上。表向きには立ち入りは禁止になっているが、ここは情報管理局執行部隊がよく使ういわばだった。コンクリートが所々剥がれて、鉄筋がむき出しになっている見るからに集団墓地のような雰囲気を醸し出す空間。それなのに、なんの躊躇もなく来れてしまうのは、湖濱こはま柚稀ゆずきが持つ快活さ故なのか。それとも、やはり裏でレジスタンスと繋がりをもっており、この手の場所には慣れているのか。彼女の笑顔からは図りかねた。



「こんな場所に……とは聞かないんだね」

「うん。だって、蝶花ちょうかが来て欲しいって言った場所だもん。蝶花ちょうかが一緒だったら、たとえ火のなか水のなか。どこだって、いいよ」



 駆け抜けていく夜風。月影を浴びて、にぃっと笑う彼女の瞳は琥珀。けれど、風に踊る影は、もはや彼女のものではない。地獄の釜と同じ色の双眸が揺れていて――ああ、彼女もまた〈悪魔使い〉なのだと気がついてしまう。



「なんで、〈悪魔使い〉なんかに?」

「逆に訊くけどさ、なんで〈ヴィアヴァスタ〉のワンちゃんに?」



 全く変わらない調子で訊き返してくる湖濱こはま柚稀ゆずき。その言葉に、私は無表情をほとんど崩さなかったと思うが、もしここが図書室であったなら大きく目を見開いたに違いない。湖濱こはま柚稀ゆずきは、私が情報管理局の局員であることを知っていた。いつから? どうやって? けれどすぐに、疑問は怒りに変わった。なるほど、知っていながら私を試していたのだ。ずっと親友だと思っていたのは私だけだったらしい。


 私は夜風を捕まえると、手のなかにサバイバルナイフを生み出す。



湖濱こはま柚稀ゆずき。あなたは脅威認定されている。規定に従い――」

「ねぇ。もうやめない? その仕事」



 また眉間に力が入ってるよと、湖濱こはま柚稀ゆずきは昼休みと同じように、ナイフの間合いに入っては私の眉間に触れようとした。向けられている刃にも全く臆することなく、懐に入って来る彼女に対し、私は途端に動けなくなってしまった。彼女の指が私の目元に触れて、体温が伝わって来る。「えへへ」と笑いかけて来る湖濱こはま柚稀ゆずきの顔が眩しくて、込み上げてくる感情をぶちまけそうになる。


 けれど、執行部隊であるもう一人の私が彼女を拒絶した。


 気がつくと、私の身体は感情をよそに刃を振るっていた。それを表情を変えずに湖濱こはま柚稀ゆずきかわしたものだから、私は悟ってしまう――ああ、お互いにもう戻れない場所にいるんだなと。そう考えた時、第二撃を振るうことに躊躇いは消えていた。湖濱こはま柚稀ゆずきもまた、指で銃を作ると指先から光線を放つ。〈悪魔〉の力によるものだ。それでも私自体を狙わずに、ただ単に牽制用に使うものだから、なおのこと腹立たしかった。


 湖濱こはま柚稀ゆずきがこれまでに経験したのは、一戦や二戦ではない。目の前の少女の動きは、幾度となく死線を潜り抜けて来た猛者の動きだった。



「〈ヴィアヴァスタ〉のおかげでさ、みんな豊かになった。それは認める。けどさ、それで蝶花ちょうかは幸せ? 楽しい?」

「問いの意味がわからない」

「この世界に創造性はあるのかな? どんな情報でも、ねだったらすぐに〈ヴィアヴァスタ〉がくれるこの世界で、人間は考える葦って言えるのかな? 自分で考えることを止めちゃってないかな? ――本当は何が欲しいのかって」

「それが、反体制派に組した理由?」



 湖濱こはま柚稀ゆずきが提示した反体制派の思想。それを聞いて、私は一笑に伏した。実にくだらない。旧世代の考え方だ。まだ、古臭い人間中心主義ヒューマニズムを信じているらしい。



「人間が自ら何かを考えて、何かいい結果が得られたことが、これまでにあった?」



 人間は不完全な生き物だ。だから、そんな存在が作り上げた社会も、必然的に不完全なものになる。確かに有史以来、社会をより良いものにしようと様々な努力がなされた。しかし、人間の歴史が戦争と闘争の歴史であったように、発展してきたのは人を欺く方法と打倒する方法だった。人類史は人と人が分かり合うサクセスストーリーではなく、築く壁の高さを競い合うドキュメンタリーだった。人間は、様々なところに壁を作って来た。万里の長上に、国境線に、鉄のカーテンに、ベルリンの壁に、アメリカとメキシコの間の壁に、民主党と共和党の間の壁に、男女の壁に、0と1の壁。そうやっておこなわれた統治が、愚かさを生み出す連続だったことは言うまでもない。


 ついに人間が自ら考えて作り出したものは、大量破壊兵器と、腐った政治権力だった。一方で人間絶滅の恐怖に怯えながら、他方で貧富の差に国民が喘ぐ。けれど、そんな悲劇が生み出されたのは、みんな人間が素晴らしいものだと鵜呑みにし、人類の発展を無条件に信じたが故だった。この先にはきっと明るい未来が待っていると。――人口問題に、世界中にあふれている紛争の種に、大震災の予言に、ポールシフトの予兆……それでも未来は明るいものとでも? 人々が絶望に突き落とされる時、背中を押した理想は一切責任を取らない。すべての間違いは、人間中心主義ヒューマニズムという名の物語を人々が信じたことにあったのだ。


 目の前の女も、その一人だ。



「人間は素晴らしいもの? 反吐が出るよ」




 *****




「もー。時間かけすぎだってー」



 どこからともなく、落川おちかわ夢彩ゆあの声がした。まるで月影のように透き通った声。私がやってあげると言わんばかりに、彼女はタイルを蹴り上げると、湖濱こはま柚稀ゆずきに向かってサバイバルナイフの刃を突き立てる。私とは比にならないほどの明確な殺意を受けた湖濱こはま柚稀ゆずきは、堪らず手元に光で編まれた剣を生み出して応戦。一撃を見舞う。



「痛ッ……。けど、いい!!」

「――ッ!!」



 片腕くらいくれてやる。そんな落川おちかわ夢彩ゆあの戦闘スタイルは狂気としか言いようがなかった。あはっ、と涼しく笑って見せる彼女。左腕はあらぬ方向に捻じれているというのに、お構いなしで刃を振るう。


 そのうち、神様から送られたギフトが開かれた。それは落川おちかわ夢彩ゆあに刻まれた遺伝子。損傷部にノイズが走ると、不気味な逆再生音とともに再構築される。


 途端に、湖濱こはま柚稀ゆずきの目の色が変わった。その視線は同級生を見るものから化物を見るものになり、そこに余裕の表情はもはやなかった。中空に光槍を生み出しては、射出する彼女。一本や二本ではない。全方位から襲い掛かる光芒は、落川おちかわ夢彩ゆあの身体を容赦なく穿った。



「あはは……もう、痛すぎ」



 肢体が切断され、臓物をぶちまける。それでも落川おちかわ夢彩ゆあが絶命することは無かった。切裂かれた衣服の下から覗いていた赤は、駆け抜けるノイズとともに、瞬時のうちに雪のように白い肌へと戻る。



「じゃあ、今度はこっちの番だね」

「うそ……。だよ……」



 怯える湖濱こはま柚稀ゆずき。四肢を震わせる姿を、私は初めて見たかもしれない。ついに、懐に潜り込まれた湖濱こはま柚稀ゆずきに一閃が加えられ、悲鳴が上がる。一方の落川おちかわ夢彩ゆあは「その声、可愛い」と嗜虐的な笑みを浮かべて、地面に倒れ込んだ湖濱こはま柚稀ゆずきとどめの一撃を加えようとしていた。



「なんで!? 目を醒ましてよ!! 蝶花ちょうか!!」

「「先に裏切ったのは、そっちじゃん。それに、なんて、もうどこにもいないよ」」



 振りかざされたナイフ。

 湖濱こはま柚稀ゆずきが瞳に映しているのは、いつになく紅潮しているだった。


 



 ―― AWAYUI泡結 CHOKA蝶花 ――

 ―― OCHIKAWA落川 YUA夢彩 ――




 どちらも本物の私かって? 本当の私なんてものは存在しない。あなたの信じたほうが私だ。真実が存在するのではなく、人が信じたものが真実になる。


 なぜなら人生はホログラム。

 本来は虚ろな器があるだけ。


 意味を見出しているのは、あなた自身なのだから。








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