第3話

 放課後。


 部活を終えた落川おちかわ夢彩ゆあは、空き教室に呼び出されていた。そこで待っていたのは、鎌谷かまや響輝ひびき――彼女の先輩にあたる人物である。端正な顔立ちの人物で、彼女が来たことに気がつくと、フッと微笑みかけた。高身長の人物であり、落川おちかわ夢彩ゆあが視線を合わせるためには、見上げる形になる。



「お疲れ。夢彩ゆあ

「先輩こそ。――どうしたの? 何かあった?」

「会いたくなってさ。駄目?」



 夕日に染まった教室。スカートを揺らして、鎌谷かまや響輝ひびきの下へと歩み寄る落川おちかわ夢彩ゆあ。彼女の動き一つ一つは、計算されたように洗礼されていて、腕を後ろで組んで男の顔を覗きこもうとする動作は、明らかに誘っていた。斜陽を反射する落川おちかわ夢彩ゆあの瞳。その光に、紫水晶アメジストの輝きが混ざっていることに気がつき、鎌谷かまや響輝ひびきはドキリとする。彼女は純粋な日本人ではない。もしくは、遺伝子操作がなされた特異被術者モディファイドと呼ばれる存在だろうか。


 ふと、鎌谷かまや響輝ひびきは面白い都市伝説があったことを思い出す。情報管理局には、極秘裏に暗殺を請け負う部隊がいて、量産された異能を宿したデザイナーベイビーがその任を担っているというものだ。半分笑ってしまいそうになる都市伝説ではあったが、特番では〈ヴィアヴァスタ〉自身がその存在を認めてしまうというシーンが紹介され(もちろん公式には否定されている)、一時期は話題になったものだ。


 鎌谷かまや響輝ひびきは半信半疑だった。けれど、空の紫紺を映したような瞳を目の前にすると、無条件に都市伝説を受け入れたくなってしまった。



「神の能力を分け与えられた天使、か」

「……?」

「いや、何でもないよ」

 


 そう言って、落川おちかわ夢彩ゆあを抱き寄せる。それから、鎌谷かまや響輝ひびきは視線を落として、おもむろに自らの唇を彼女のもとへと近づける。落川おちかわ夢彩ゆあが彼を拒むことは容易にできた。けれども彼女もまた背伸びをして、押し付けられる唇を受け入れる。光が失せていく教室にあって、お互いの体温が薄暗い空間に浮かび上がっていく。


 落川おちかわ夢彩ゆあに触れれば分かる。肌は柔らかいのに、引き締まった身体をしている。制服の上からでも分かる胸のふくらみと、本当に無駄のない身体つき。もし神様なんてものが本当にいるのだとすれば、彼女は最高傑作だった。



「えへへ……。先輩、サイテー。どさくさでどこ触ろうとしてんの?」

「いいかなって。駄目だった?」

「駄目だよ。だって、先輩って彼女いるよね? こんなことしていーの?」

「いいんだよ。そろそろ別れようと思ってたし」

「あっ、そうなんだ」



 この場には誰もいない。誰も見ていない。見ているとすれば、〈ヴィアヴァスタ〉くらいなものだろう。けれど、今日のことが、〈ヴィアヴァスタ〉にバラされたとしても鎌谷かまや響輝ひびきは一向に構わないと思っていた。



「そういや、夢彩ゆあっていまフリーだよな? オレとかどう?」

「どうだろー?」

「積極的なのは嫌い?」

「ほんと、悪い先輩。〈ヴィアヴァスタ〉にヤバい奴だって認定されたらどうすんの?」



 それこそ〈悪魔使い〉になっても知らないよー。そんなふうに冗談めかして言う落川おちかわ夢彩ゆあに対して、鎌谷かまや響輝ひびきは口角を釣り上げた。ちょうどいい機会だ。この少し生意気な後輩を驚かしてみるのも面白いかもしれない。



「聞いて驚くなよ。実はオレ、〈悪――」



 耳元で囁くように口にしながら、最近契約したばかりの〈悪魔〉の名前を心のなかで呼ぶ鎌谷かまや響輝ひびき。文字通り彼は目の色を変え、その瞳は闇のなかで猛禽類を思わせる金色に染まる。そして――


 ――背中に燃えるような痛みが走った。



「……ッ!?」

「私、先輩のこと割と好きにはなりかけてたんですよ? けど、〈ヴィアヴァスタ〉から殺せって言われちゃったので。えへへ」



 一瞬何をされたのか分からなかった。鎌谷かまや響輝ひびきの目が捉えたのは涼し気な笑みを浮かべる落川おちかわ夢彩ゆあ。しかし、その表情は何処か恍惚に染まっており、その笑みは嗜虐的でさえあった。途端にバックステップをするように、男から距離を取る彼女。しかし、もはや男の方に抵抗する気力は残っていなかった。先ほどまで彼女の手が添えられていたはずの背中を見れば、サバイバルナイフが突き刺さっている。刃の先が真っすぐに捉えたのは、彼の心臓だった。


 たった一突き。

 しかし、急所を捉えた最も的確な一撃。


 鎌谷かまや響輝ひびきに抵抗する術はもはやなかった。許されているのは、背から自らの生命力が抜けていくのを感じながら、絶命までに残された数秒に残す言葉を考えること。



「カハッ……」

「バイバイ、先輩」



 けれども、実際に彼ができたのは、浮気相手の言葉を聞くことだけ。そして、自重じじゅうによる床との衝撃が、彼が感じた最期の感覚だった。




 *****




「茶番が長いよ」



 鎌谷響輝ターゲットの死亡を確認しつつ、私が言葉を投げると、落川おちかわ夢彩ゆあはただあっけらかんとした様子で、机に座って足をぶらぶらさせていた。



「見てたんだー」

「当然でしょ。いつも誰が人払いのために疑似現実景象ホログラミック・サイトを展開してると思ってるわけ? 使用時間が長い理由を当局から問われたらどうする気?」

「分かってないなー。ただるんじゃなくて、前戯も大切なんだよ?」

「いらないよ」



 落川おちかわ夢彩ゆあ相棒バディになってから一カ月。だんだんと彼女の異常性に気がつき始めた。そのたびに、よくも〈ヴィアヴァスタ〉から危険人物認定されないものだと呆れてしまう。人を殺すことに対して躊躇いがないのはもちろん、性に対しても奔放で、殺人と性交渉を同じ感覚でこなそうとしている。はっきり言って精神異常者だ。


 もっとも社会から排除・隔離されるべき人物。かつてミシェル・フーコーは、社会の近代化と監獄の発展の間に関連性があることを示唆したが、どうやら彼の考えは彼女には当てはまらないらしい。


 近代化とはなにかと問われると、それは均質化・画一化された生産様式の形成過程だ。それまで、物を作るのは職人であり、そのほとんどがオーダーメードだった世界。けれど、衣服であろうと、時計であろうと、あらゆるものは規格化されて、マニュアル化された工程で作られるようになった。いま、この教室に並ぶ机と椅子が、どれもこれも同じ形をしているように、決められた手順、決められた方法で、物は生産されるようになった。労働に従事する人物もまた、好きな時間に休憩して、好きな時間に作るわけではない。いまは就業時間、いまは休憩時間というように、彼らもまた管理されるようになった。だから、近代の工場に必要なのは、個性を持った個人ではない。決められた時間に起き、決められた時間に労働を開始する、規則正しい個人だ。それは予鈴チャイムによって管理された。学校は、近代社会が望む労働者を生み出す場であり、テストという名の検品を何度も受けて、均質化され画一化された合格者が社会へとベルトコンベアで運ばれていく。


 近代社会が求めたのは「ふつうの人」。だから「異常者」は、「ふつうの人」になるトレーニングを受けるか、さもなくば隔離された。犯罪なんて犯す「異常者」を隔離する場所――それが監獄であった。監獄とは近代の産物なのだと、フーコーはこんなふうに歴史を紐解きながら示唆したのである。


 だから、落川おちかわ夢彩ゆあとは、本来は真っ先に監獄にぶち込まれるはずの存在。それなのに、彼女はいま私の隣で、この社会の管理者の役割を担っている。そして、それを容認しているのは〈ヴィアヴァスタ〉だ。



「あんた、〈ヴィアヴァスタ〉にどんな賄賂わいろ渡してるわけ?」

「そんなのないよ。〈ヴィアヴァスタ〉は私に天使になってって言ってくれた。だから、私はそんな〈ヴィアヴァスタ〉に報いるために、天使の仕事をこなしてる。それだけだよ」

「……」



 何が神様だ。ただの情報集積と統計データの処理をおこなうAIだろう。そんなことを思いながら、〈ヴィアヴァスタ〉の提示する情報から、私は落川おちかわ夢彩ゆあの殺人履歴を消去する。これで、〈ヴィアヴァスタ〉の忠実で優秀なしもべである落川おちかわ夢彩ゆあの完成だ。そう考えると、私は嗤いたくなってしまった。この犯罪者の潔白を証明しているのは、他ならぬ偽証者うそつきである私なんだと。



「さーて、次のお仕事教えて〈ヴィアヴァスタ〉。今度は誰を消して欲しいの?」

『社会の脅威となる人間の情報を取得しました。分析の結果、情報管理局執行部隊に所属する落川おちかわ夢彩ゆあさまには、次の人物の排除が推奨されます――』



 ――湖濱こはま柚稀ゆずき



 刹那、世界が停止したかと思った。途端に、視界が歪んでいくような感覚に襲われる。そして、夜が降って来る。まるで水面みなもすみを落としたかのように。闇は燃え上がり、陽炎となって広がっていく。今宵も、月下で無形の影が踊り出す。落川おちかわ夢彩ゆあの影は異形。そのなかで、うっすらと嗜虐的な笑みを浮かべている。



「……」

「へぇ……。たしか、蝶花ちょうかの幼馴染だったっけ?」



 

 けどさ。

 神様が殺せって言ってるんだもん。

 仕方ないよね。








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