第2話

 人生はホログラムと似ている。そんなふうに中空映写画面ホログラミック・ディスプレイを見るたびに思う。これ自体は、ただの映し出された幻影だ。存在すると思うから目の前に存在する。もし、二百年前の日本で、何もない宙を撫でる人間がいたら、私は妖術使いか何かと警戒されるだろうし、百年前の東京で誰もいない虚空を相手に会話をしていたら、頭がおかしな人間だと思われたことだろう。それはある意味において正しい。私が相手にしているのは、幻影だからだ。


 人生だってそうだ。仏教の開祖が、人生を本来的に「空」だと言ったことを引き合いに出すまでもない。意味なんてない。それなのに、人間はそこに生きる意味という名の幻影を見出す。その点、洞窟に映し出された影絵だと表現した西洋の学者は、きっとその本質を理解していなかったのだろう。人生に原物オリジナルは存在しない。むしろ、原物オリジナルの存在をもはや問題にしないホログラムと本質的には同じものだ。




 *****




「なーに、見てんのっ?」



 ニュースに目を通していると、画面を突き破って、一人の少女が私の目に飛び込んできた。だーん、とテーブルを勢いよく叩く制服姿の少女。琥珀の瞳と快活な笑みがこちらに向けられ、濡羽ぬれば色の髪がふわりと浮く。そして、そんなふうに昼下がりの図書室の静謐さを破壊した少女の頭上には、湖濱こはま柚稀ゆずきの名前が表示される――幼馴染の名前だ。


 いまや紙の本なんてほとんど需要がない。小説を読むにしても、あらすじを知るにしても、〈ヴィアヴァスタ〉が大抵のことなら解決してくれる。その本が洋書なら、読むよりも速い速度で自然な日本語に直され、かつ望めば音声ガイド読み聞かせまでしてくれる。そして、辛うじて残っているたちもまた、なおさら蔵書量の限られている学校の図書室なんて行かない。だから、図書室に来る人間と言えば、教室に馴染めない奴か、もしくは図書委員の私くらいなものだった。――いいや、前者と後者の違いなんて、肩書があるか無いかの違いに過ぎない。それでも肩書ひとつで、カウンターテーブルを隔てて、座り心地の違う椅子に座って、図書室の静寂を享受することが出来る。


 さっきまでは。


 私は溜息をつくと、画面を閉じて目の前で屈託のない笑みを浮かべている幼馴染に向き直る。



「別に? 何でもいいでしょ?」

蝶花ちょうかってば、怖い顔してたよ?」 



 また難しいことでも考えてたんでしょ、とでも言いたげな様子で眉間を弄ろうとする湖濱こはま柚稀ゆずき。そんな彼女に、私は顔を引っ込めた。それから、話したいことがあれば、〈ヴィアヴァスタ〉を通じて伝えてくれればいいのにと思う。人と人が話せば、何かしらいらない誤解も伝えてしまうことがある。それが海の向こう側に住む人物であればなおさらだ。その面〈ヴィアヴァスタ〉ならばスペルミスや文法上のミスも適宜修正して伝えてくれる。だから、無用な摩擦を生まないために、大抵は〈ヴィアヴァスタ〉を通じて要件を伝える場合が多い。――それなのに、ここまで積極的に関わろうとするとは。この湖濱こはま柚稀ゆずきの行動は、と勘違いされてもおかしくない。


 私は、カウンターに身を乗り出す湖濱こはま柚稀ゆずきから視線を逸らしつつ、展開していた中空映写画面ホログラミック・ディスプレイを閉じる。私が先ほどまで見ていたのは、最近起こったテロ事件。反〈ヴィアヴァスタ〉を掲げる、自称レジスタンスだ。


 けれども、〈ヴィアヴァスタ〉の情報収集能力をもってすれば、町のなかに紛れているテロリストを発見することは容易である。昨日、落川おちかわ夢彩ゆあとともに粛清した人物もまた、反体制思想に傾倒した人物であった。そうして、私たち情報管理局執行部隊の活躍によって、レジスタンスは壊滅寸前にまで追い込まれている。



「そうだ!! 面白い都市伝説、教えてあげる」



 湖濱こはま柚稀ゆずきは、中空映写画面ホログラミック・ディスプレイを目の前に展開して共有してきた。彼女はオカルト部に所属している変わり者でもある。そして、最近はちまたで囁かれているの存在についての都市伝説に執心しているようだった。



「超能力者じゃなくて、〈悪魔使い〉って言うんだよ。読んで字のごとく、〈悪魔〉の力を使える存在」



 そうして、話し始めた内容は、〈悪魔〉に愛されてしまった者が、情報管理局の人間によって粛清されているというものであった。なんだそれ? ……と一笑に伏してしまいそうになるが、ここでの〈悪魔〉は一般的に思い浮かべられるような悪魔ではなく、少し設定の凝ったものになっている。――曰く、だというのだ。


 そもそもマクスウェルの悪魔とは、熱力学第二法則に反する存在として一八六七年に想定された思考実験の産物だ。物事は時間経過とともに複雑性を増してゆく――例えば、ミルクとコーヒーが同じカップに入れられると、時間経過とともに混ざり合っていく。そして、その逆はあり得ない。外部からの力なしに、カフェラテがミルクとコーヒーに分けられた状態に戻るわけがない。けれど、もしもこの逆転現象を可能とする存在がいたとしたら? こうした存在が、思考実験の提唱者であるスコットランドの物理学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルの名前からとって、マクスウェルの悪魔と名付けられた。ちなみに、現代では情報熱力学の発展により、この存在は否定されている。


 けれども。


 世界は複雑性を増しているというのに、分けられ続けているものが存在していた。それは、自己と他者である。同じ「世界」という名のカップに入れられているというのに、混じり合うことなく存在している。これはどういうことか? まさに熱力学第二法則――エントロピー増大の法則に反した現象。湖濱こはま柚稀ゆずきは、ここに〈悪魔〉の存在を見出していた。


 認識上に棲み、自己と他者を分け続ける〈悪魔〉。この存在は、無限にも近しいエネルギーを有している。そんな〈悪魔〉の力を自在に扱える存在のことを、彼女たちはこう呼んでいるのだ――〈悪魔使い〉と。


 そして、超常の力を操る〈悪魔使い〉たちは、情報管理局に対するレジスタンスを形成して、〈ヴィアヴァスタ〉が作り上げる秩序に対して挑戦しようとしている。……というのがこの都市伝説のオチだった。



「――くだらない。ただのオカルト話だよ」



 私は視線を逸らして、馬鹿馬鹿しい話だと切り捨てる。変なことを思いつく人もいるものだと。都市伝説とは、詰まるところ知的な連想ゲームだ。だから、変に頭の回転が速い人たちが創作をおこなう場合があり、なかには聞いていて圧倒されてしまうような話もある。けれど、詰まるところは創作なのだ。怪談と同じように、楽しむくらいがちょうどいい。のめり込めば、破滅が待っている場合が多い。


 私の反応が気に入らなかったのか、ムッとする湖濱こはま柚稀ゆずき。「いやいや、本当に超能力を使えるんだって!!」とさらなる証拠を見せようとする彼女から逃れるように、「次の授業あるから」と私は席を立つ。



 ――それ以上は、駄目だよ。柚稀ゆずき



 心のなかで警告する。湖濱こはま柚稀ゆずきが知ろうとしているもの。その先にあるのは真実ではなく、〈ヴィアヴァスタ〉の定めたレッドラインだ。超えれば、私たちの執行対象になってしまう。


 〈ヴィアヴァスタ〉が望んでいるのは、強烈な個性を持つ個人ではない。むしろ、均質化され平均化された個人だ。外れ値は必要ない。秩序のためには害悪ですらある。求められているのは、自己と他者が混ざり合った世界。



「ねぇ、蝶花ちょうか!! 超能力者は本当にいるんだって!! 八雲やくも羽月はづきって言って、めちゃくちゃ強い人が――」

「……ッ!!」



 その場を去ろうとする私の背中から聞こえてくる言葉を振り切る。同時に、私は奥歯を噛んだ。


 八雲やくも羽月はづき

 もちろん知ってる。


 超能力者……いいや、〈悪魔使い〉の八雲やくも羽月はづき。空間転移を得意とする化物。そして、レジスタンス・グループを率いる少女。彼女は、〈ヴィアヴァスタ〉が最大危険人物に指定している執行対象だ。








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