81-村外れの雪道で
息を切らせ、神官衣の少女が走る。
村の外れが近づいてくる。
風景が歪んでぼやける。
そんな靄がかかった瞳を晴らそうともせず、ただひたすらに走る、走る、走る。
その顔には恐怖がべったりと張り付いていた。
心臓が張り裂けんばかりに胸打つ。
目をひたすらに前を向かせ、後ろを振り返る力なぞに少ない体力を割り当てるわけにはいかない。
いかないけれど、脳裏に浮かぶ背後の惨状に歯を軋ませた。
「はぁっ……ぁっ!」
飛び散った血が、
食い散らかされた体が、
当たり前の風景にこびりつく。
いつも目にする家屋が、
家畜小屋が、
田畑の柵が、
鮮血に溺れていく。
前触れなく、不死者の大群が押し寄せて村人を蹂躙していった。
統率の取れない村人とはいえ、全力で逃げれば不死者の歩く速度に対して、逃げ遅れることないなどないはずだった。
だったら何故、襲われたのか。
そんなの決まっている。
襲撃が成功してしまったのは、不死者の統率が取れていたのだ。
逃げろという言葉に背中を押されて走り出した少女の目に辛うじて映った――不死者の最奥に立っていた、かぶりを被っている人型の姿。
あれは、あれは……不死者を操る死霊術士だった。
円卓でターフェルが話した「魔族が攻撃的になった」という話。
それは《麗水ノ海港》より東に位置する村や街からの報告を元にしたものだった。それも、徒党を組んでの襲撃も幾らか報告がされているのだと。
それでも国民は、勇者一党が無事に帰ってきたのだから大丈夫だと信じていた。対抗しうる存在がいるのだから、どこかでその勢いは止まるのだろうと思っていた。
「……いやだ、いやだ……っ!」
けれど、少女らが当然として送るはずだった日常を――人が失うべきではない尊厳を、最大限、踏みにじり汚していった。
不死者が土足で踏み荒らしている大地は、昨日まで自分たちが歩いていた場所なのだ。
脇腹が痛む。
向かい風に揺れる新官衣が体力をじわじわと持っていく。
せき切る息が空中に絶えず散っていく。
白い悪魔が足に絡みつき、体温を優しく奪っていく。
除雪が済んでいない雪道というのは、これほどまでに走りにくいものなのか。
止まってしまいたい、止まったらだめだ。
もう走れない、走れなくとも走るのだ。
村を外れてどこに行く、とりあえず走るのだ。
ぼやけていた視界が込み上げてきたもので更にぼやけ始めて、形となって頬に伝う。
「誰か……っ、誰か……ぁっ!」
声を絞り出す。
肺が痛い。
冬の寒々とした空気は針のように肺に突き刺さる。
けれども、先の見えない未来へ体力を投資するならば、誰かに助けを求める方が良いと判断した。
それがたとえ、現実的には相応しくない判断だとしても、心の蟠りを掬ってくれた。
今は、ただただ希望が欲しかった。
だが、その行為を嘲笑うかのようにカタカタと骨が鳴る軽い音と金属が擦れる音が耳に入ってくる。
「なんっ――で!」
不死者がなんでこうも早く走れるの?
おかしい。おかしい。話に聞いていたのと違う!
だって、彼らはそんな。村を襲った時はそんなに早く動けてなかったのに。
私の体力がもう限界なの?
足が遅くなっているの?
それでも、なんで!
その刹那、少女の背中に熱いものが走った。
「――いっ! あぁっ!?」
目を向けると、矢が左肩を貫いていた。
純白の神官衣にじわりと咲いていく赤い華。
崩された体勢の下、雪の冷たさが神官衣をジンッと侵食していく。
「なんでっ、今なの……」
それまでも矢を放っていたというのに、このタイミングで命中させてきた。
弓兵の骸骨は、生きていればガッツポーズでもしてしまいそうな愉悦感に、カタカタと下顎骨を揺らして鳴らす。
息を荒げ、体勢を立て直しながらすっかり青ざめている唇を噛みしめて力を振り絞った。
「にげ、ないと。はやく、もっと、遠くへ……!」
「――GRRRRRRR!!!」
「ひっ!?」
再び走り出そうとした少女に伸びる、黒い影。
追撃しようと不死者の群れの間を縫ってでてきたのは――
口端からは肌色の指が見え隠れをしており、漆黒の体の至る所には血を被ったように毛並みが赤く染まっている怪物――
その姿を見た少女は、脳裏に鮮明にある光景が蘇った。
逃げろと叫んだ兄へと飛びかかり、喉元を食いちぎって死体を投げ飛ばした魔物の姿。
あの村へと先んじて襲撃してきたのは、あの動く死体だ。
……大好きな兄を食ろうたのは、あの
今まで漠然としていた恐怖が、一気に鮮明な形へと成った。
「はっ、はっ……! 誰かぁ!」
少女が走った道を倍の速さで駆ける
まき散らすそのニオイは、鼻を塞いでしまいたくなるほどの腐臭と獣臭さと泥臭さが混じったもの。
それに合わさるように食い散らかした血肉を被っているのだから、放つニオイは他の不死者の者よりもキツい。
背中を追われる少女の鼻にも届くそのニオイは、新たな恐怖として脳のみそに訴えかけてくる。
「だれかっ」
――逃げろ!
「おねがい……!」
――逃げろ! 逃げろ!
内から響く少女の声を、狼の咆哮が塗り潰す。
足を取られるはずの雪道を狼は滑るように追いかける。
村の教会で修練をしているとはいえ、少女だ。
あっと言う間にその黒い死は背中へと届くだろう。
少女の口が渇く。喉に何かがつっかかっている。
冬真中だというのに、背中はびっしりと冷や汗に濡れている。
ただ逃げることしか出来ないという無力感が足を震わせる。
ニオイが迫ってくる。放たれた矢が背中に突き刺さる。
ニオイが迫ってくる。軽快で規則的な地面を駆ける音と共に、
――あぁ、もうだめだ。
そんな思いが頭に過る。
少女は神官ではあったが、魔物――それも
傷を治すことはできても、攻撃に転じることができない。
走る振動の度に汗と血液が地面へと滴り落ちて、道となっていく。
もうだめだ。もうだめなんだ。
神様、すみません。
私は、もう。
少女は、背中に迫った死の足音から逃れるように目を閉じるとすぐに衝撃が全身に打ち寄せた。
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