82-遅くなってごめん
酷いニオイが手の届く場所にあると感じた。
ガギリと鋭い歯が噛み合う音も同時に感じた。
だが、来るはずの痛みが無い……として少女は薄っすらと目を開く。
「――……ぁ」
ぼやける視界の先には……
装備を碌につけておらず、
瞳を黒布で隠している黒髪の男性がいた。
「声が聞こえたから場所が分かった。頑張ったね」
先程の衝撃は黒髪の男性の腕に抱きかかえられたときの衝撃だったのだ、と混乱する頭で理解をした。
が、すぐにそれは目に飛び込んできた情報によって上書きをされる。
「……それ、血……」
狼の噛みつきを防ぐために、男性が包帯だらけの腕を盾にしていたのだ。
骨が砕かれる音。
狼が唸る声。
溢れ出した血液。
「――――」
少女は、一瞬のうちに希望が薄れていくのを感じて咄嗟に奇跡を祈った。
《静なる者に動きを
渇きを知る者に満ちを
救済を求める者に生命の躍動を
慈悲深き恩寵を》
少女の嘆願に、男性は一瞬だけ寂しそうに笑んだ。
「《
少女の内にあるナニカがごっそりと削り取られる感覚になるが、その代わりに温かな光が男性を包む。
「はっ! はっ……これで、これでっ――っ!?」
光が消え去ると、少女は瞠目した。
「なんっ……で。治って……」
おかしい。
私はしっかりと祈った。
奇跡が発動できたのも目視した。なのに、なんで。
「ごめん、なさい……! もう一回、奇跡をっ」
もう一度、祈れば――少女は神へ祈りを捧げようとして、のしかかってきた疲労感が少女の視界をグルンと曇り空へと向かせた。
――力が意識を引き連れて抜け落ちていこうとする感覚――
数キロと恐怖から逃げてきた少女の体ではもう、神の御業は使うことが出来ないのだろう。
「意識、戻して」
手から滑り落ちそうだった少女の体を、男性はグイと抱き寄せる。
「――ひっあ」
耳元で声を頼りに、少女は意識を必死に掴んだ。
「はっ! はぁっ……す、すみぁせん……わたし……!」
「ごめんね。あとちょっとだけだから」
そう言うと、男性が狼に食わせていた手を器用に回し、狼の歯を更に腕に食い込ませ、思いっきり地面に叩きつけた。
「わ」
一瞬の無重力が少女の体を弄ぶと、その場にいた三名からぼたぼたと落ちた大量の鮮血が雪道をくぼませた。
「GAA……」
「……くっさいなぁ、こいつ」
何が起こったかをその腐った頭で理解をする間もなく、死んでしまったようだ。
脅威が去ったことをじわじわと体感すると、
「――あ」
少女は思い出したかのように男性の腕の処置をしようと袖を捲った。
「は……やく、清めないと……!」
だが、また少女は硬直をした。
「えっ」
処置をしようとしていた手が止まる。
先ほどまでだらんと力なく下げられていた腕の傷は、既に治っていたのだ。
「俺、頑丈だからさ。傷とか大丈夫なの」
腕を見つめる荒い呼吸の少女をからかうように手をぷらぷらと遊ばせて見せた。
ほらね。そう言う男性の表情は、不安を与えないようにと和やかなもので。
「不死者には……」
「ならないよ。アイツはそんな能力持ってない」
そう言いながら男性は少女の稲穂色の頭をぽんぽんと撫でた。
きょとんとしている少女だったが、不死者の軍勢の足音を微かに耳に捉えて、表情をまた強張らせる。
体力はもう限界。
足も動かない。
逃げ切るとしても数キロの道なりを走る力なぞもう残ってはいない。
ただ一つ、怯える感情から逃れるために、男性の肩を縋るように掴んでいた力だけが強まった。
「大丈夫だよ」
「え」
「大丈夫」
少女が見上げてくる視線を感じながら、瞳を隠している男性は魔物軍勢の方を向いたまま帯剣をしていた針のような剣を抜いた。
「――見てて」
不死者の群れに向かってツツと空間をなぞるように振るう。
ピシッ、と空間を引き締める音が響くと、遠くに見えていた不死者の頭部は胴体から離れて落ちて行った。
「何回も一人で戦ってきた相手だ。だから、大丈夫」
何が起きたのか分からないまま、少女は男性の武器を見つめる。
流れるような文様が柄に入っている銀の武器。
針のような見た目以外には、これといって何も特徴がないように思えるが。
突然のことで頭が回っていない少女を他所に、黒髪の男性は一枚の
「遅くなってごめん」
謝罪の言葉が聞こえる頃には、少女の体は
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます