夢を占う
たき
ピンクの海
目を開いたら海の中だった。
海の中、というのは少し正しくない。”海”と言っても、舐めると塩辛い水で満たされた場所ではなく、多量の液体で満たされた場所、という意味での海だ。
その海を満たしている液体はいちごミルクのような透明感のないピンク色をしていて、妙な光沢を放っていた。波打つたびに水面がとぷりとぷりと揺れている。
あたりはなんとなく薄暗くて、海の先になにがあるのかはまったく見えない。それなのにピンク色の海だけははっきりと見えるので、底知れない不気味さを感じてわたしはぶるりと身震いをした。
わたしはその海の中にそびえ立つ要塞のような建物の中にいた。要塞とは言っても骨組みと、かろうじて床が残っているような抜け殻のような建物だ。その骨組みの割と高い場所、おそらく窓があったのだろう穴から海を見下ろしていた。視線の先では濁った波がうなりを上げて渦を巻いている。
こんな高いところから落ちたら一発で終わりだろうな。他人事のように考えてから、はて、と首を傾げた。
どうしてこんなところにいるんだっけ?
ここでわたしは、これが夢であると気がついた。まあ、夢の中なので気がついたところでどうしようもないけど。
けれどこれでさっき感じた薄気味悪さは少し薄らいだ。だって夢だから。見たいものだけはっきり見えるなんて、夢の中なんだから当たり前でしょ。
さて、ピンク色の海の上にいるという状況はわかったが、こんなところでなにをしてるんだろうか?
その答えは思いのほかすぐに見つかった。
「早く逃げて! 鬼が来た!」
突然わたしの背後から女性の大声が聞こえた。ああそういえば鬼ごっこをしていたんだった、と認識する。状況を確認しようと後ろを振り返る間もなく次の声が響く。
「逃げて! 捕まっちゃう!」
ようやく背後を振り返ると、若い女性がところどころ崩れた廊下をこちらに向かって駆けてくるところだった。離れたこちらまでぜえぜえと荒い息遣いが響いてくる。
「逃げるって、どこへ?」
わたしの意識下にないわたしの肉体は、駆け寄ってくる女性へと右手を差し出しながら問いかける。
ここは廊下の突き当たり部分。逃げる場所なんて女性が駆けて来た廊下しかない。
いや、もうひとつ。
「海へ!」
女性はわたしが差し出した右手を突進するような勢いで握り、そのまま宙と飛び出した。しっかりと握られた右手に引かれるまま、わたしの身体も一緒に宙を舞う。
ちょっと待って、こんな得体の知れない海に飛び込むとか、冗談じゃないんだけど!
大声で叫びたかったが、相変わらずわたしの肉体の支配権はわたしにはないので、小さくうめき声が口から漏れただけだった。
わずかな浮遊の間、握りしめられた手のひらからどくどくと女性の脈拍が伝わってくる、ああ、生きてるんだな、なんて場違いにも感動して、わたしは少し泣きたくなった。
わたしたちが宙を舞っていた時間はほんのわずかで、すぐに足裏は不安定に揺れるなにかの存在を伝えてきた。なにかしらの足場に無事着地できたようだ。どこに着地したのかが気になったが、あいにくわたしの視界には手を引く女性の姿しかない。
「間に合ったみたい。怪我はない?」
手を繋いだまま、女性がこちらを振り返って微笑んだ。のだと思う。
なぜならこちらを向く彼女の顔は、
「ないよ。助けてくれてありがとう」
感謝の気持ちをこめて一度、ぎゅ、と力を込めてから握った手を離した。彼女にも伝わったようで、離れていく指先が応えるようにさり、と指の腹をさすって行った。遠ざかる温もりがなぜだか無性に寂しかった。
「よかった。とりあえず疲れたから座ろうか」
「うん」
ようやく視線が足元に落ちる。降り立った先は小さな舟だった。近代的なものじゃなくて、郷土資料館とかで展示されてそうな、木造で平べったい、ちょっと高い波がきたらすぐ水に浸かってしまいそうなやつ。二人が向かいあって座ったら膝同士がぶつかってしまって、二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
「ねえ、どこまで逃げればいいの?」
なにか漕ぐものはないかと交互に突き出した膝の隙間を覗き込み、底面に同化するように置かれた
「今日はあそこまで」
その言葉と共に指された方向には何もなかった。一面ピンク色の波の中、そこだけぽっかりと何もなかった。黒いわけでも、白いわけでも、なにか目印のようなものがあるわけでもない。それなのに確かに無が存在してるのがわかった。夢の中の認識って意味がわからないな。
「わかった。あそこまで行けばいいんだね」
なんのために逃げているのか、鬼とはなんなのか、今日ということは明日もあるのか。さっぱり理解できていなかったが、わたしの口は
気がつけば太陽が昇り、先ほどまでいた要塞の残骸は跡形もなく消え去っていた。まわりにはわたしたちと小舟に座る二人組が何組も浮かんでいた。場面の切り替えの速さついていこうという気すら起こらなくなってきた。どうせこれは夢なんだし、理解しようという方が無理なんだろう。
舟に乗ってピンクの海を渡る集団はいつしか横一列に並び、同じ速度で何もないゴール地点を目指して進んでいた。振り回す櫂からこぼれ落ちたピンク色の雫が、光にあたっても輝きを放つことなくどろりと落ちていく光景が不気味だった。
彼女とはあれから一言も言葉を交わすことなく、ただひたすらに向かい合って櫂を漕いでいる。時折こちらを伺う表情からは、何も受け取ることができなかった。
彼女の顔はぼんやりとしていて、よく見えないから。
やがてわたしたちは、何もないゴール地点に辿り着いた、のだと思う。
次の瞬間にはまた場面が切り替わって、ひどく人工的に装飾されたピンクの波の間を漂っていた。
競技用のプール程度の広さだろうか。海の中の一角をピンク色の波に負けないくらいカラフルなコースロープが仕切っていて、所々にビート板を大きくしたような原色の浮島のようなものが並んでいる。
またしても理解が及ばずにフリーズするわたしの意識を置いて、わたしたちは背後を気にしながら泳ぎ始めた。何がいるのかもわからない、ドロリと濁ったピンク色の海の中を、波を切って迷いなく進む。よくもまあこんな海の中を、とわたしは思ったが、夢の中では全くの無意味だ。というかそもそも現実のわたしは泳げない。
いつか想像してみたようにすいすいと泳ぐわたしの隣で、不意に呻き声が上がった。
「早く! こっち」
声がした方を確認する間もなく、また彼女に手を引かれる。彼女は人一人を引っ張っているとは思えないスピードで、波を切り進んでいく。わたしはほとんど引きずられる格好で彼女を追いかけた。
そのうちにあちこちから悲鳴が聞こえてきた。それと同時にぽちゃぽちゃと水面を叩く音と破裂音。
「なに……?」
声を上げたと同時に、数メートル先にあったショッキングピングの障害物がぱん、と軽い音と共に破裂した。つまり、先ほどから聞こえる水面を叩く音は……。ぶるり、と背筋を震えが走る。
「いいから、振り向かないで。こっち」
柔らかだった彼女の声に焦りが混ざる。その硬さに恐れを感じて、今まさに振り向こうとしていた頭が動きを止める。奮い立たせるように数回頭を振って、前を向いて泳ぎ出した。
きつく目を瞑って、聞こえてくる悲鳴を掻き消すように、ただ波の音だけに集中して。わたしを導いてくれる彼女の手を強く握って、ひたすらに進む。
やがてプールの端へと到達すると、彼女にやわらかく抱きしめられる。それと同時に背後で聞こえていた銃声が止む。
「ここがゴール。お疲れ様」
子供をあやすように、ぽんぽんと頭を撫でられている感覚がある。確かめたくも視界は徐々に黒く染まり、今まで感じられていたあらゆる感覚が急激に遠のいていく。
どういうことだ。さっきの銃撃はなんなんだ。というか、ここはどこなんだ。あなたは一体誰なの。
叫びたいいくつもの疑問は、覚醒へと向かう意識の流れの中で消えていった。
「っていう夢を見たわけ。もー朝から冷や汗が止まんなかったわ」
「それは嫌すぎる。あたし絶対見たくない」
夢見が悪くて寝不足、と到着早々にへたり込んだ彼女の目の下には、うっすらとクマができていて、かわいそうにと思うと同時に薄暗い独占欲が満たされていくのを感じた。
「あまりにもおかしな夢だったから、夢占いでもしてみようかと思ったんだけどさ、出てくる要素多すぎてなんて調べればいいかわかんなくてさ」
「そーね」
「すぐ諦めちゃった。ってかそれ考えてる時間が無駄だなって」
「そりゃそーだ」
こてり、と首を傾げてオレンジジュースを
「ねえミカ」
「なに?」
「来年も同じクラスだといいね」
へにゃり、と目尻が垂れ下がる特徴的な笑顔。幸せという概念を体現したようなその笑顔。それが向けられる先が、あたしだけならいいのに。
「……そうだね」
夢の中のように、この海のなかに閉じ込めて、あたしだけを頼ってくれたらいいのにな。
握り締めた手の中で、スマホケースのピンク色のオイルがとぷりと揺れた。
夢を占う たき @shira_taki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます