小説

青海老ハルヤ

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 例えば、好きな小説に出会うとは、目の前に唐突に現れ消える女性のようであると思う。短編であれば尚更そこにある時間は短い。一夜も持たずただ唇の喜ばしい柔らかさを後になって思い出すような。今の僕がそれだった。

 仕事で失敗した夜だった。電車の揺れに吐きそうになりながら、吊革に必死になってしがみついていた。白いマスクの群れも誰もが釣られたように身を任せていた。毎日乗っていれば慣れるよ。親の言葉を反芻しても、僕は何も得られなかった。誰もが無表情の中、高校生――受験生だろうか――が緊張した、しかし開放されたような朗らかな顔をしていたのだけが少し印象に残った。

 吐き気がせり上って来たのでやっと天を仰いだ。胃がくるくると回るように揺らぐようで涙が目に溜まる。その時僕は初めて広告に気がついたのだった。色味の薄い、数本の線で描かれた女性の横顔絵だった。美人だと思った。黒で塗りつぶしただけの髪も美しかった。こういっては絵の作者に失礼かもしれないが、さほど手がかけられていないような簡素な絵にも関わらず、僕はまさに一目惚れしたのだった。小説の広告のようだった。何とか賞候補作とも書いてあった。タイトルは聞いたことがなかったが、作者の名前は何故か知っていた。

 電車を降りた僕は急いで本屋に立ち寄った。どうしてかそれが僕に必要な買い物であるように思えてならなかった。その本は一番前の文庫本の棚に置いてあった。思っていたよりも薄く、当たり前に考えてこの考えはおかしいと思うのだが、その本が声を出さないことに違和感を覚えた。絵にしか見えないその美人が、目の前に立っていたとして、僕は何ら疑問に思わず、声を掛けたかもしれない。まだ震える手でそれを掴んで誰もいない会計の机に置いた。お婆さんが奥から出てきて、無愛想に「いらっしゃせー」と言うと、レジをなれない手つきでポチポチ押し始めた。「七八〇円です」。

 お婆さんはじっと僕のことを見ていた。急かされている気がして慌てて千円札を出すと、またポチポチとやって「二二〇円のお釣りですありゃーした」。そう言って奥の方へ引っ込んで行った。

 家に着いたが、どうも読む気がしなくてその本を机の上に置いた。ちゃんとした気持ちを作る必要がある、と思った。どうも僕にはハードルが高いらしい。ビールではなく埃の被った紅茶のパックを取りだしてみた。お湯を沸かそうしたが、もうしばらく洗っていないヤカンはシンクの沢山の食器の山に埋もれていた。とりあえずヤカンだけを、と思ったが、結局上の食器から洗い出した。

 ようやく洗い終わった時、もう十二時を過ぎていることに気がついた。明日も会社だった。休むことも考えたが、一冊の本のためだけに休むのも気が引けて、その日は布団に潜り込んだ。

 その日どころか、結局その本を手に取ったのは週末の夕暮れだった。むしろ、こうマンネリのように読まなくなるかと思っていたので、もう一度手に取った自分が不思議なほどだった。綺麗にしたヤカンで紅茶を入れ、掃除をした六畳の居間のソファーに座った。電気をつけようか迷ったが結局付けなかった。夕暮れの中で本が赤く染まっていた。

 表紙を開くと、硬い紙が嫌の音を立てた。我慢していくつかページを開くと、ようやくその小説は始まっていた。

 結論から言うと、特に何も思わなかった。あれだけ焦がれるようだった女性の性的描写にも、何も思わず読み続けていた。文学的と言うやつなのだろう、よく分からない比喩も心には残らなかった。僕が本を読んでこなかったのが悪いのだろうか。それでも、最後まで一度に読めたことには驚いた。その達成感だけが僕の心を占めていた。外はもうすっかり暗くなっていた。黒いベールの中で凝らしていた目は凝り固まっていて、周りを見てから再びその本を見ると、暗くて何も見えなかった。

 これが何とか賞の候補作なのか。正直、こんなものか、という思いが少しづつ大きくなって言った。もう冷えた紅茶を一気に口に流し込み、夕食を買いにコンビニに行こうと席を立った。ドアを開けると、遠くに梅の香りがする。


 数日後、あの本屋の前を通ると、もう新しい本が1番前の棚にあった。カウンターには誰も居ない。客が紙を捲り擦れる音がする。その時唐突に、ぼんやりとあの黒いベールの中に小説を思い出した。暗闇の中に目を凝らしてみた文字が心が揺らし、あの小説の感触を形作り、紙をめくる音が溢れるのだ。僕は本屋を後にした。

 例えば、好きな小説に出会うとは、目の前に唐突に現れ消える女性のようであると思う。家に帰っても、僕はあの小説を手に取らないだろう。煙のように触れさせてくれなかったあの女性の、部屋に残った残り香を、梅の香りと共に思い出すだけだ。

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小説 青海老ハルヤ @ebichiri99

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