04 分岐点

 ――カスミの目算は、五日で終わった。

 目覚まし時計を準備しなくなって六日目。インターホンが鳴った。昼食の準備を中断して、カスミは端末画面を呼び出した。マキセが映っている。カスミは息を呑み、小さな不安を片隅に抱えながら玄関を開けた。

「こんにちは、連絡もなく押しかけてしまって申し訳ありません」

 形式的に、あるいは様式美として、カスミは「いいえ」と返した。そして今度こそ警戒せず、マキセを室内に通した。

「ごめんなさい、お昼時でしたね」

 まだ熱をもったままのフライパンに目を向けて、マキセが言った。室内には香ばしい焼きそばソースのにおいが充満している。午後二時に昼食を摂る、怠惰な生活を見破られた気がして、カスミは恥じ入りながら座るように勧め、茶を用意し、向かい側に座った。

「就職の件ですか?」

「いえ……」マキセの物言いはいつになく歯切れが悪かった。「例の、オオノさんのお願いについてです」

 カスミの心臓が強く鳴動した。まさか、と思いつつも、半分は確信があった。

「両政府合意のもと、ホリエさんには再び〈あちら〉へ行ってもらうことになりました」

 カスミは声を詰まらせた。あまりにも早すぎる対応は、オオノがそれだけ重用されているという証左だと受けとめるべきか。カスミの曾祖父は想像以上に大物らしい。今回は、前回以上に、拒否の余地はないだろう。一度宇宙を渡ったのだから、二度も三度も同じ、という魂胆だ。

 カスミは黙考した。帰り際のオオノの様子を回想して、懸念をいだいた。

「もしもオオノさんが三度目、四度目を望まれたら、どうなりますか?」

 カスミにとってオオノは相変わらず身内ではなかった。「祖母の話ができる知り合い」という程度に認識は改まったが、血のつながった家族という感覚は持てないままだ。もしもオオノに「おじいちゃんと呼んで欲しい」と頼まれたら、逆らいはしないだろう。ただし、もて余した違和感を、嫌悪に変えたかもしれない。そう思うと、対面の折におじいちゃん呼ばわりを要求されなかったのは僥倖だった。二人が気心を合わせられたのは、よそよそしいほどの距離を保っていたからなのだ。

 マキセはカスミの口振りに興味を示さず、心苦しそうに答えた。

「おそらく、またお願いすることになるかと思います」

 予想通りの内容に、つい溜息を吐く。オオノの言いなりになって、ずるずると面会が続いたらどうするつもりなのだろう。彼が死ぬまで、カスミは〈あちら〉と〈こちら〉を行ったり来たりしなければならないのか。親しい友人ならまだしも、年齢の離れた異性と、特定の話題のためだけに何度も接見するのは、正直に言って負担を感じる。

 それに、訪問が続く間はまともに就職できないことも気がとがめた。装置がある研究所は、新幹線とリニアを乗り継がなければならないほど遠いのだ。宇宙をまたぐと生じる時間のずれだってある。今回は一週間で済んだ。では次回は? 二年、三年と経っている可能性は消えない。こんな状態で仕事なんてできやしない。

 だったら無理に就職しなくても、とささやく自分もいた。組織に属せず政府の依頼を遂行している現状はフリーランス業ともいえる。ただ、生真面目なカスミは履歴書に生じる空白が気になって仕方がなかった。次の勤め口はマキセに斡旋してもらえても、その会社を辞めたくなったときは自力で次を探さなければならない。希望する職が見つかったとして、その企業は空白期間を許容してくれるか定かではない。この期間はなにをしていらっしゃったんですか? などと尋ねられたら、守秘義務があるため嘘をつくことになる。結果、試験に落ちたら、実際がどうあったとしても、無職だったせいだろうか、嘘をついたせいだろうか、と煩悶する。

 考えれば考えるほど、心に暗い影が差した。オオノとの関係が続く限り、カスミに自由はない。自分の人生が他者に支配される。そのきざしを感じていながら、飲み込まれるしかない自分の無力さもまたカスミをさいなんだ。


 その後、一時的にマキセが所属する組織に籍を置いて給与をもらってはどうか、という提案があった。しかしカスミは態度を定めず、保留を申し出た。受けてしまったら、ますますオオノからのがれられないのでは、と不安に思ったのだ。きっぱりと退けられなかったのは、政府の権力に頼らざるを得ない状況に追い込まれた未来の可能性を考えてのことだった。事前にしたためた自前ルールによると、被った不利益を補填する目的であれば政府を頼ってよい、となっている。オオノの気任せな願いがカスミに良質な作用をもたらしているとは思えない現状を踏まえ、防備を固めておくべきだと判断したのだ。

 八日後、カスミは再び宇宙を越えた。前回と同様の行程を経てオオノの病室に入ると、喜色にあふれた歓待を受けた。

「お加減はいかがですか」

「ありがとう、おかげでね、医者もびっくりするくらい良いよ」

 しわまみれの笑顔には、ほんのりと血色が乗っていた。心なしか髪にも艶が出たようだ。部屋の隅には前回の訪問時にはなかった車椅子が据え置かれている。病室の外に出る機会が増えたのだろう。ベッド脇に立つ〈こちら〉のマキセは唇に笑みをいているし、調子が良いのは本当のようだった。もしかしたらマキセと共に散歩をしたりしているのかもしれない。

 病室の変化はもう一つあった。サイドチェストに祖母の写真が飾られていたのだ。飾り気のない木製の写真立ては、ウェディングドレスと華やかさの対称にあり、調和に欠けるも、カスミは言及を控えて、手もとを離れた写真を内心で惜しんだ。せめて祖父が一番気に入っていたあの写真ではなく、別の写真であればと後悔しても、もう遅い。気持ちを切り替えて、カスミは務めに集中した。

「あの、どうしても渡したいものって、なんだったんですか?」

「ああ、うん」

 オオノが、マキセに顔を向けた。社会的組織人というより、オオノの小間使いとしての印象が強い〈こちら〉のマキセは、サイドチェストの引き出しから古びたノートを取り出した。

「どうぞ」

 マキセに促されて表紙をめくった。雑な文字でつづられた内容は、深く読み込まずともすぐに理解できた。だし巻き卵、茶碗蒸しなどの卵料理から始まり、肉じゃが、大根と蓮根の煮物、ハンバーグ、唐揚げなどのレシピだ。一般家庭の夕食を濃縮したような一冊をめくりながら、カスミはこの本の正体に気づいた。

 祖母の料理は、祖母の母が伝授したものだ。そのレシピは亡くなった彼女の夫、つまり曾祖父が遺したレシピを元にしたと聞いた。その手記は、母子が引っ越ししたときに紛失してしまった。

 一方〈こちら〉の世界では、オオノは死なず、妻は実家に帰る必要がなかった。結果、レシピが残ったのだ。

「それはきみにあげよう」

「いいんですか? こんな大切なもの」

 もう二度と手に入らなかったはずの遺産を前にカスミはおののく。対して、オオノの態度はやや悲しげであった。彼はレシピではなく娘を亡くしたのだ。失われたはずの遺産の価値は、くした者とくした者の間に、認識の齟齬を生み出していた。

「もしも娘が生きていたら受け継いでくれたんだろうけどね」

 陰鬱が濃くなった顔を見て、カスミは〈あちら〉と〈こちら〉の差異を思い知った。世界にとって宇宙にとって、曾祖父が生き残ったか、祖母が生き残ったかは誤差の範囲を超過しているのだ。オオノが生き残れば宇宙の謎が早期に解明されて、祖母が生き残ればカスミが生まれる。どちらの世界がより良いのかなど、当事者の一端であるカスミには選ぶ権利すらないのかもしれない。

 それからお互いの近況を語り合った。程よいところで区切りをつけ、今度こそ病体に配慮して辞去を申し出るも、予想通りにオオノから引き留められた。

「そのレシピで私になにか作ってくれないか。次に会うとき、食べてみたいんだ」

 前回以上に難易度が高い。無茶が過ぎる、と思った。作った料理を〈こちら〉の宇宙へ持ち込む良否はもちろん、一般的な味付けの食べ物を、療養生活を続けるオオノの口に入れていいのか、医療面も心配だ。

 例によってこの場もマキセの預かりとなり、カスミは帰路についた。病室から十分離れたところでマキセに呼び止められて、ノートを渡すように告げられた。

「宇宙間で、物量が大きく変化するのは好ましくありませんので」

 では祖母の写真も返却するべきでは、とは言い返せなかった。カスミは無言の内にノートを彼女へ手渡し、得心のいかない心を引きずって帰宅した。


 手料理の約束は、〈あちら〉の宇宙に渡ったあとで、研究所の調理場を借りて叶えることになった。慣れないキッチンで作っただし巻き卵は焦げてしまった。オオノはおいしいと褒めてくれたけれど、本音がどこにあったのかは分からない。カスミはあえてさぐらなかった。

 次になにをして欲しいというお願いはなかった。しかし去り際に「また今度ね」と挨拶された。自分の願いが叶って当然という態度だ。カスミの腹の底で、暗いもやが蠢動する。マキセや彼女の背後にいる両宇宙の中央政府がオオノの言いなりになっているのも反感に触れた。知らないふりは、そろそろ限界かもしれない。

 四度目の訪問で、ふと祖母の言葉を思い出した。初回は不慣れと戸惑いで、二度目以降はオオノの相手に必死で先送りにしてしまっていたが、もともとは祖母の言葉を伝えるために宇宙を渡る決意をしたのだ。思い出したからには伝えなければ、とはやったのは一瞬だけ。カスミは気塞ぎに襲われて真意を閉ざした。いまは祖母の話題ではないから、会話の流れが滞ってしまうからというのが言い訳だという自覚もあった。あの優しい祖母の優しい言葉を、カスミを振り回す男に伝えてやるのは、なんとなくしゃくに障ったのだ。


 面会は数をこなすごとにかどがとれて、新鮮味が薄れた。同じ話題を繰り返すことも増えた。十五年ほど一緒に過ごしたとはいえ、幼い頃の記憶は不明瞭だ。覚えているエピソードにも限りがある。発展性のある話題といえば、せいぜい互いの近況くらい。それも、仕事を辞めて贅沢もできないカスミに異色性は提供できず、袋小路で立往生しているような息詰まりがあった。

 いつの頃か、カスミはオオノについて考えるようになった。彼はなぜこんなにもカスミに固執するのだろう。

 祖母に会いたい気持ちは、分かる。カスミは結婚もしておらず、子どももいないが、親が子を思う世間一般的な感情には理解があった。祖母を諦めきれずに、ひ孫で代用する気持ちも分かった。長年追い続けた夢なのだ。人生に区切りをつけるためにも、ひ孫の顔くらい見たくもなるだろう。祖母の生い立ちを知りたがるのも、祖母が生きていたら、という空想を昇華したい心理が垣間見える。カスミの近況を質問するのはその延長だ。一つ一つを吟味しても不自然な情動はない。ところが全体を俯瞰してオオノに照らし合わせると、粘着性が高く、高圧的な行動との整合性にひずみがあるように見受けられた。

 もともと彼が居丈高で他者を支配するような人的性質を持っていたとしたら? 今度は、祖母を命がけで助けてくれるような父親像とかけ離れてしまう。

 あるいは〈あちら〉と〈こちら〉の宇宙では、個人の人格なんて一致しなくて当然なのか。いや、マキセを見る限り、その可能性は低そうだ。〈こちら〉のマキセはオオノに傾倒しているが、基本的にどちらもマキセも空気を読んで細やかな心遣いをしてくれる。職務上、厳しい立場をとらなければならない場合は毅然として、きちんと理由を説明してくれる。性格の半分は遺伝子で決まるという学説もあるし、宇宙が違うから性格も真反対になる、ということはなさそうだ。

 では、この乖離の原因は何なのだろう。

 熟思を重ねたのち、カスミは一度も思考を向けていない一点に気づいた。事態の原点、曾祖父と祖母が遭遇した事故についてだった。

 祖母の言葉を告げるタイミングを計っていた時とは異なり、カスミはそれまでの会話を完全に断ち切るかたちで質問をした。

「聞いてもいいですか」いいですか、と言いながら、お願いのかたちをしていなかった。返事がある前にカスミはただした。「事故についてです。祖母が亡くなった事故が、どんなものだったのか」

 オオノの顔色が変わった。朗らかさを色にして溶かした表情が一瞬で凍りついた。

 脇に控えるマキセも、なんて事を聞くのだと叫ばんばかりに険を立てる。扉付近に控える警護の男性たちも非難の目を向けた。

 それでもカスミは引かなかった。意志を目に込めてオオノを射貫くと、これまでさんざん無頼を押し通してきた男は、肩を落として縮こまった。

「それは……」

「〈あちら〉では、人工知能の不具合による移動車事故でしたけど、〈こちら〉も同じなのでしょうか」

 オオノは長い間を空けたのちに、「……そうだ」と低く重い肯定を呟いた。

「祖母のお母さん……奥さんの体調がすぐれない日で、近くの公園に遊びに行く途中だったと聞きました」

「……そう、だ」

 事実を確認する程度の質問だ。答えない方がおかしい。マキセに差し出口を挟ませないためにも、重要なのは質問の順番だった。カスミは慎重につなげた。

「幹線道路から一本横の支線で、生活道路ほど狭くなくて、どこにでもあるような道で」

 親子二人、並んで歩いた。程なく、幼子の足取りに父親が辟易した。歩調を合わせるのに疲れたのだ。だから子どもを抱き上げようとした。――そこに自動運転装置が壊れた車が突っ込んできた。

「車が目の前に現れたとき、あなたは、祖母の両脇腹に手を差し入れていた」

「……そうだ」

「あなたはそのとき、なにを考えましたか?」

 質問と共に、カスミは想像をめぐらせた。腕の中の幼い子どもは、これから自分の身に降りかかるだろう難事をまったく解せず、きょとんとしていた。父親は命の危機に直面して、思考の回転数を上げた。逃げなければ、と思っただろう。だが相手は車だ。速度で敵うはずがない。それでもなんとか足を動かしながら、前後左右の状況を再調する。映画のスタントマンのような身体能力があれば車を華麗にさばけただろうが、そんな自信はなかった。後ろに逃げても跳ね飛ばされる時間がほんの少し遅くなるだけだ。右か、左か。ハンドルの舵角によっては、生き残れる確率が変わる。迷っている時間はない。父親は無我夢中で駆け出した。暴走車の異音が耳をつんざく。真後ろに迫っている。だめだ――

 現実世界では、重い沈黙が続いていた。頭の中の世界から帰還したカスミは、項垂れ、かすかに震える男を直視した。これ以上待っても答えは得られないだろう。安楽椅子から立ち上がり、男のつむじを見下ろした。言うならいましかない、と思った。

「祖母からの伝言です」


 お父さん、助けてくれて傍点、ありがとう。


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