03 祖父との対面

 退職前の有給の消化期間に入った初日、マキセに付き添われて国際科学研究所へ入った。

 研究所は都市から一時間離れた人工島にある。海洋学研究所、生命学研究所などの異分野研究所も隣接して、学際的研究を推奨しているのだと説明を受けた。人工島には生活基盤を支える商店や娯楽施設も整っており、ウォーターフロント都市として完成している。未来の科学者を育てるため、週末にはイベントを行って学生や家族連れを呼び込むなど、カスミがイメージする研究所よりもはるかに開けている。

 ただし世界の、いや宇宙の先端を切り開く研究所が、全容をさらけ出しているはずもなかった。

 カスミの乗った移動車は、敷地の真正面にある受付棟を横切り、さらに奥へ前進した。アスファルトでつながる建屋をいくつも見送った。そのうち人の気配が薄まり、水平線と、港を出入りする船が一望できる場所に出て、ようやく車が止まった。

 マキセのあとに続く。建物に入って、待ち構えていた白衣の集団と合流し、昇降機に乗る。研究員が自身の端末を操作盤に近づけると些末な音が鳴って端末画面が開いた。入力しているのはパスワードだろうか。そのあと声紋と光彩の認証が行われて、警備の厳重さを肌で感じた。防犯カメラの他にもたくさんのセキュリティシステムが働いているに違いない。

 昇降機は地下へ向かった。短くない時間を要してようやく扉が開くと、施設の説明もないまま小さな会議室に通された。

 マキセと向かい合わせになって座ると、机上に紙の束が差し出された。デジタル社会では紙は最高級品だ。身も心も引き締まる。

 印字された内容に目を通すと、宇宙間移動に際し見聞きした情報は守秘義務が適応されて、破れば禁固刑が課せられる、政府への協力金として現金が支給されるなどの旨が記載されていた。すべての文章の説明を受けて文末にサインをすると、次の部屋に案内される。宇宙間移動に使う装置が安置された場所だった。

 その場所は、多目的ドーム一個分ほどの広さがあった。面積のほとんどを多様な機械に占有されているので、人間が立ち回れる範囲はごく限られている。白衣をまとった人間が三十人、警備員が五名、交代で勤務している、と小耳にはさんだ。

 目的の装置はカプセル剤の形をしていた。ガルウィングドアのような出入口が横についていて、中は真っ白ななにもない空間だった。宇宙船にだって人数分の椅子はついているだろうに、不親切な設計というのがカスミの率直な感想だった。

「スピンの様子は?」

 白衣の男性が二人、話し込んでいた。わき目でちらりと盗み見る。

「微妙ですね」

 同僚らしき人物と二、三言、話し合った男が、マキセに近づいて何事かを耳打ちした。

 マキセは深くうなずいて、カスミを呼んだ。

「四十八時間以内に、装置が安定次第、すぐに〈先方〉へ行っていただきます。準備をお願いします」

 その時は十二時間後に訪れた。早朝に端末経由で起こされて、顔を洗っただけで装置に放り込まれた。

 下着の着用も許されず、身に着けているのは白衣だけ。あまりにも心もとがない。それから古い写真が一枚。〈先方〉への、いやオオノ・マモルへの手土産だと説明すると、協議が行われたのち、携帯を許可された。

 出入口が閉じられて、カプセルの中が真っ暗になった。パチン、と輪ゴムを弾くような音が聞こえたかと思ったら、間を置かず出入口が開いた。

「こちらへどうぞ」

 マキセの声だ。

 なにが起きたのだろう、トラブルだろうかと、おそるおそるカプセルを出た。

 ドーム状の研究室に変わった様子はない。研究員の顔ぶれも、顔つきも、カスミの認知した範囲で変化は見られなかった。手違いが起きた雰囲気はなく、カスミはますます混乱にとらわれる。

「お待たせしました、まずは着替えをどうぞ。ご案内します」

 着替えなら、用意してもらった個室に数日分の服をまとめていたのに、通された部屋は別の個室で、カスミの趣味に合わない可憐なワンピースを着るはめになった。

「あの……」

「お似合いですよ」

 個室から顔を出して、廊下に待機していたマキセに話しかける。そのやりとりで、カスミはいよいよ漠然とした不自然を確信した。

「いえ、そうではなくて。私が持ってきた服ではいけないんですか? 今朝はパジャマから白衣に着替えたので、まだ替えが残っているんです。できればそちらを」

 はじめは不可解そうに目をしばたたいていたマキセも、カスミの訴えを耳にし、意味を理解して顔つきを変えた。

「いいえ、ホリエ・カスミさん。残念ながら〈こちら〉側には、あなたの個室はありません」

 苦笑を目にしてカスミは察した。宇宙の移動はもう終わってしまっていたのだ。

 ではこのマキセは、カスミの心情を顧慮してくれたマキセではなく、初対面のマキセということになる。目の位置も、鼻の高さも、しぐさも、歩き方も、なにもかもが変わらないのに、彼女ではない。感覚的に理解しがたい現実を前に、カスミはしばし呆然とした。

「大丈夫ですか?」

「あ、はい……。すみません、頭では理解していたつもりだったんですけど」

「お察しします。時間がないのでこのままオオノさんに面会していただきたいのですが、すこしお休みになられますか?」

 愁色にふちどられた表情は、〈あちら〉側の宇宙のマキセが、カスミに向ける厚意とまったく同じだった。異なった宇宙の、違う「マキセ」でも、彼女の根幹は変わらず親切だ。あちら側、こちら側、と線引きに固執しない彼女のふるまいは、カスミに刺激的な意識の変革を誘発した。戸惑いが払拭されて、カスミなりの受け止め方で良いのだと得心した。

「いいえ、休んだらよけいに緊張しそうなので」

「承知しました。では、こちらへ」

 あちらから持ってきた写真をポケットにしまってマキセを追いかけた。昇降機に乗り、地上階へ出る。閑散としたロビーに差し込む光は強い。壁に埋め込まれたデジタル時計を目視すると、日付は同じまま午前九時を過ぎていた。移動装置に入ったのは早朝、起床後すぐだ。体感でもせいぜい一時間程度。三時間も経過しているはずがない。つまりこれが膜宇宙の移動に伴う誤差なのだ。

 変化はそれだけではなかった。ロビーから外に出て、カスミは我が目を疑った。海が見えない。移動車を降りてすぐ視界を埋めた水平線と船が、大きな建物にさえぎられている。強い磯のにおいが淡い記憶と符合するので、海沿いであることはちがっていないようだ。たぶん人工島の上、だと思うのだが、自信はなかった。

 研究所の前にそびえる施設は、奥行も幅も高さも規格外の建物だった。どんな役割を担った建造物なのか熟思するまでもなかった。出入口の脇に「救急搬入口」と表示された電子案内板を見つけた。

「病院……」

 なかば上の空でつぶやくと、マキセが事もなしに「ええ」といらえた。

「オオノさんが体調を崩されたため、政府が研究所の隣に敷設した総合病院です」

 今度は目だけでなく、自分の耳も疑わなければならなかった。

「設備が充実しているので、全国の患者はもちろん、各方面の要人も多く利用しています」

 マキセの声音は誇らしげだった。角度を変えて耳をすませば、先祖代々伝わる家宝の宝石を、血統も格式も持たない庶民のクラスメイトに自慢しているような響きを含んでいた。

 彼女を高揚させているのは総合病院ではない、彼女の宝石はオオノだ。オオノは、マキセのような女性に、謙虚さを踏み越えてさせてしまうほどの大人物なのだ。

 マキセだけではない。〈あちら〉の人工島にも病院はあったが、こんなに大きくはなかった。島の駅から徒歩で十五分の立地にあり、患者の大半は近隣の住民で、要人御用達の大学病院はもっと内陸にあった。

 たった一人の人間が、町の風景を変え、人々の行動を変える。

 カスミは現実にはない木枯らしを感じて自分の両腕をさすった。


 マキセの案内で病院に入った。職員用の通用口から廊下に出ると、三人の黒スーツの男性に左右と背後を囲まれた。警護とも監視ともつかない圧力がある。マキセの同僚か、類似組織の人間なのだろう。それぞれの方向から浴びた一瞥は淡白の極みにあった。職場の男性社員に向けられた、容姿を評価する視点はなく、外装傍点を確認しただけらしい。

 病院の昇降機には大形展望窓が採用されており、上昇するにつれて人工島の態様が明らかになった。緑が多い。こんもりと生い茂る葉っぱがまるで絨毯のように見える。徒歩用の通路は設けられているが道路はなく、代わりに移動車はビルとビルの間隙に通された硬質な板の上を走っていた。板が半透明なので、角度によってはクルマが空を飛んでいるようにも見える。比喩表現ではない、本物の未来都市を目の当たりにし、カスミは胃が重くなるのを感じた。

 ドアが開くと、いよいよ、という緊張がカスミを襲った。急速に強張った手足を動かして、清潔な廊下を一歩一歩踏みしめた。五人分の足音は、ある部屋の前止まり、マキセが白い扉を軽やかにノックした。

「どうぞ」

 しゃがれた返答を耳にして、カスミの鼓動はいっそう強くなった。浅い呼吸を自覚しながら、かすかに震える両手をにぎりしめる。感情がなくなったのではないかと錯覚するほどの大きな不安に押しつぶされてしまいそうだ。必死に耐えて、無言のうちにその瞬間を迎えた。

「失礼します」

 マキセがドアノブに端末をかざすと自動でドアが開いた。

 病室には、介護ベッドのヘッド部分を起こし、背中を預ける老人がいた。しわくちゃの顔は血の気がなく白かった。髪も眉も真っ白だ。だが百歳という年齢を考慮すれば十分な生命力を備えていた。〈こちら〉の科学力が長命を支えていると小耳にはさんだが、人工的な加担は見受けられない。あくまで自然に年齢を重ね、せいぜい八十代くらいに見えた。

 老人は小さな目を確然と開いて、カスミの一挙手一投足を追尾した。

 枕元に近づいたカスミは、老爺の容貌を観察した。祖母と似ているか、と聞かれたら、いいえと答えるだろう。性別が異なるためかもしれない。下がり眉で柔和だった祖母に対し、彼の目に力が込められて鋭く見えるためかもしれない。

 赤の他人という感覚がぬぐえないまま、カスミはぎこちなく頭を下げた。

「初めまして……堀江ホリエ香澄カスミです」

「初めまして、大野オオノです。立っていないで、お座んなさい。そこに」

 オオノがまなざしでカスミの後ろを示した。間髪をいれずマキセが動き、ここが病室であることを忘れさせるような立派な安楽椅子をベッドに近づけた。

 マキセも、黒スーツの男たちも立ったままなのに、自分一人だけ楽をするのは良心が刺激された。しかし部屋主にすすめられて拒絶できる立場でもなく、カスミはおずおずと浅く腰をおろした。

 話題に困る前にオオノが口火を切った。

「きみはお母さん似かな、お父さん似かな」

「おか……母親に似ている、と言われました」

「お母さんは、ご両親のどちらに似ていると?」

「母親に、祖母に似ていたそうです」

 その祖母が、――あちらの、こちらの、という複雑な関係を排除すれば、対面する老人の一人娘にあたるのだ。なるほど、カスミがそうであったように、彼もまたカスミの顔貌に接点を見出そうとしているのだろう。

 気づいたカスミは腰を浮かせてポケットをさぐり、許可を得て持ち込んだ古い写真を差し出した。

 写真というのは記録媒体の一種だ。いまどきわざわざ印刷したりしない。だが祖母の若い時代は印刷する習慣がかろうじて残っていた。亡くなった祖父が気に入って、手帳にはさむために写真館で刷ってもらったらしい。ウェディングドレスを着た祖母が、幸せそうに微笑する特別な一枚だった。

「祖母です」

 あなたの娘です、とは言えなかった。複雑な状況がカスミの発言を制限した。

 写真を受け取ったオオノは、長い時間、印面を凝視し続けたあと、しわがれた指で祖母の頬をなぞり、触れて初めて祖母の不在を思い知ったかのように面持ちを崩した。

「私は……」

 呻き声をもらして、彼はそのまま言葉を飲み込んでしまう。

 理性を壊してしまいそうな感情の奔流を感じたカスミは、視線を下げて現実から目を背けた。彼の情動を身の内にとりこんではいけないと思った。なぜかは分からなかったが。

 しばらくして気力を取り戻したオオノは、娘、つまり祖母の人柄に関心を向けた。

 カスミは孫として養女として、祖母について語った。成績よりも健康を重視し、毎日、失った家族を思い出していたと。愛情深い人だった。学用品を購入するときはカスミの好みを聞き入れてくれた。手間暇をかけてワンポイントの刺繍を入れてくれた。近所の農家から作物のおすそ分けをもらったときは、自慢のレシピを使って、できあがった料理を贈り返していた。

 話しているうちに、カスミも少しずつ気持ちが昂ってきた。自宅と職場を往復するだけの毎日では、亡くなった家族を話題にあげる機会はない。生きている人間が優先で、職場の人間の、夫や妻や子どもたちの様子を聞く役に回らざるをえなくなる。ところがここでは立場が変わる。もっぱらカスミが語り手だ。オオノの質問が巧みなのも、カスミを饒舌にさせた。

 記憶の扉を次々と開きながら、二人で懐旧の旅を楽しんだ。

 マキセが飲み物を用意してくれたあたりで、話の主題はカスミ自身にも及んだ。母譲りの歌声を祖母に褒められたと口をすべらせると、避けがたい勢いでオオノに歌を求められた。いくらかの問答のあと、童謡を一曲披露した。歌手など到底望めない歌声でも、オオノは目尻の余分な力を抜いて喜んでくれた。

 解散の空気がただよい始めたのは、女性看護師が遠慮がちに入室したときだ。「点滴の時間です」と断りを入れて、決められた手順で職務をこなす彼女の様子をながめているうちに、カスミも冷静を取り戻した。

 太陽が西に傾いている。空の色も変わった。いくら楽しくても、寝たきり老人の訪問にはふさわしくない行いだった。

「あの、長居してしまってすみません。私そろそろ、お暇します」

 オオノの顔色が変わった。明らかに彼は落胆していた。

 カスミはかける言葉がみつけられなかった。ただの見舞いであったなら、「また来ますね」などと、かなうかどうかも定かではない常套句を口にしただろう。だが事故で祖母が亡くなったこの宇宙では、カスミは存在しない人間だ。再会は二度とない。そう考えるとカスミも後ろ髪を引かれる思いがあったが、かといって、いつまでも留まっていられるはずがなかった。

 待ちかねていたようにマキセが動いた。彼女の同僚たちも廊下に出て、さっと左右に目を走らせた。彼らに導かれるまま、カスミが安楽椅子から立ち上がると、焦燥しきった声に呼び止められた。

「ま、待ってくれ。どうしても渡したいものがあるんだ」

 体の自由がきかない寝たきりの老人が、もどかしそうに体を揺さぶった。見かねたマキセが手を貸して背中を支えると、オオノはやや前のめりになって訴えた。

「次に会うときまでに準備しておこう。ぜひ受け取ってくれ」

 きらきらと希望に輝く瞳を向けられて、カスミはたじろいだ。でも、と出かかった反論が、喉の奥で溶けてしまった。

 マキセの訪問から今日まで、カスミの意思は決定権を有していなかった。始まりはオオノの無鉄砲なわがまま、それを〈こちら〉の宇宙の中央政府が承認し、〈あちら〉の政府の打算が加わって、対面の場が整えられたのだ。再会できるかどうかを決めるのもまたカスミではない。下手に言い立ててオオノの機嫌を損ねたら、また強権がふるわれるかもしれない。カスミは口を閉ざし、意思決定者に近い機関に勤めるマキセに託した。

「オオノさん、そのお話は時間を設けて決めましょう」

 マキセの微笑を見つめ、オオノは「そう、だな」と矛をおさめた。

 カスミは胸を撫で下ろし、改めて頭を下げて辞去の意思を示すと、男たちに囲まれて部屋をあとにした。

 来た道をそのまま遡って、研究所の地下から例の装置に乗る。そして元の宇宙へ。身を休め、マキセにあちらでの出来事を報告したあと、リニアと飛行機を乗り継いで、遅い時間に帰宅した。

 一週間、無人だったマンションの部屋は、やけに静かだった。空気がこもっている。旅行バッグを置いて、窓を開けた。

 夜景を眺めながら、自分の身に起きた出来事を振り返る。宇宙を渡った? そんな感覚はまったくなかった。長い移動の末、ちょっと変わった箱に詰め込まれて、初対面の老人と昔話に花を咲かせた……その程度だ。マキセの様子が違っていたことには驚いたけれど、終わってみれば緊張よりも充足が上回った、おしゃべりは楽しかったし、長い移動も気分転換になった。オオノの最後の発言は引っかかるけれど、容易には承認されないだろう。不世出の天才でも、威権には限りがある。宇宙を何度も越えるとは思えない。仕事も辞めてしまったし、新しい勤め先が決まるまでのんびりできる。そう、最低でも一週間くらいはあるだろう。

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