02 カスミの決断

 警察署を出ると、外はもう真っ暗だった。空を見上げても星は見あたらず、下弦の月だけが光っていた。

 夕食を作る気力はとっくに失せている。そのくせ、緊張から解放された体は空腹のシグナルを強く発していた。宇宙間の移動が可能になったというのに、人類はいまだ飢餓からのがれられない。生物の限界におかしみを感じたカスミは口許に自嘲を浮かべ、帰宅途中で行きつけのスーパーに立ち寄って、売れ残りの中でも一番安いからあげ弁当を購入した。痛い出費だが今日は目をつむろう。

 自宅マンションにもどって、冷蔵庫から冷えたビールを取り出す。弁当といっしょにテーブルに並べれば立派な晩餐の完成である。

 端末を操作して選んだのは、世界の名所をめぐる旅行動画だ。目と耳をなぐさめるだけの雑音に、ニュースを選択する気分にはなれなかった。これまで目にしてきた「世間」が、政府や一部の成功者によって整備された情報であると感じ入るのを避けたい意図があった。

 時間をかけて食べものを胃に入れて、動画を眺めながら祖母を思い出した。

 祖母は柔和な女性だった。いつもどこか悲しげな笑みを浮かべていた。成績が悪くても勉強しろと言われたことはない。優先順位の一番は家族の健康だった。

 祖母といえば、特に料理を思い出す。母親、つまりカスミの曾祖母に教え込まれたらしい。料理上手だった曾祖父のレシピが元になっているそうだが、肝心のそのレシピは、田舎に引っ越した際に紛失してしまったと言っていた。

 祖母は昔を懐かしむ人だった。動画も静止画も、一枚たりとも削除しなかった。ストレージがいっぱいになったら追加料金を払って容量を増やした。父親を亡くした娘、娘を亡くした母親。祖母にとって人生とは喪失と同義語だったのだろう。いまわの際に、夫と孫娘よりも先に死ねるのがうれしい、と微笑むほどに。

 無常をさまようしかなかった彼女の人生を、カスミは葬式の場で深く偲んだ。

 祖母が月に二、三回ほどの頻度でアルバムファイルを開き、なつかしそうに目を細めていた様子を脳裏に思い描いた。記憶の中の祖母は、ダイニングチェアに座って画面に触れ、一枚一枚ていねいに指をすべらせていた。カスミはその正面に座って思い出話に付き合うことがあった。幼少時には祖母の膝に乗って昔語りを聞いた。幼いカスミの母の様子を、物心がつくまえに亡くなった父親の幻影を。

『カスミちゃんのお母さんは、お歌が上手だったの。カスミちゃんはお母さんに似たのね』

『じゃあ、カスミはお母さんに会ったら歌をうたうね。上手だからお母さんびっくりするね』

『そうねぇ』

『おばあちゃんは? おばあちゃんのお父さんに会ったら、ごはんを作るの? おばあちゃんのお父さん、おいしくってびっくりするかな』

 死を正しく理解していない子どもの空想に、祖母は遠くを見る目つきになった。父親が生きていたら、いつか再会できたら――そんなやさしい世界を夢想したのだろう。

『おばあちゃんは、……お父さんに会ったら、助けてくれてありがとうって伝えたいねぇ』

 現実に回帰したカスミは深呼吸をした。ビールを最後の一滴まで飲みほして、勢いのまま天井を見上げた。

 〈先方〉の中央政府が、功労者であるオオノ・マモルのわがままに協力的なことは、分かる。

 では〈こちら〉の中央政府が彼らの目論見を賛助する理由はなんなのだろう。カスミに謝礼を支払ってまで協力させようとする理由は、そう――報労だ。

 実際、中央政府と研究所はすでに、あちらとこちらを行き来する新技術を手に入れている。これだけでも多大な利益になる。知識も技術も力だ。お金にもなる。科学技術が進んでいるらしい〈先方〉から供与が約束されたなら、〈こちら〉の政府が乗り気になって当然。オオノ・マモルのひ孫が金銭的な見返りを求めても、寛容な処置を施してやろうという気分にもなるだろう。

 カスミがオオノとの面会を果たすというのは、個人間の事物内にとどまらない。背景にある大きな取引の橋渡しすることになる。それを許容してまで曾祖父と会うのか。宇宙を越えて、七十年も前に亡くなったはずの祖父に。

 顔を正面に戻すと、動画の再生は終わっていた。画面を消したカスミの脳裏に、祖母の声がおごそかに打ち寄せた。


 ありがとうって伝えたいねぇ。


 一週間ほど悩んで、カスミは自分にルールを課した。

 まず、年収に相当する金額を要求する。いざというとき、お金で口止めが可能な人間だと思わせるためだ。それ以上はなにが起きても私腹を肥やさない。便益も要求しない。

 ただし面会にあたって不利益が生じた場合、補填する程度であれば許容する。

 政府間の交渉は見て見ぬふりをする。もとより一個人が干渉できる事案ではない。今回の一件で得た権益を、すべからく広く社会に還元してくれることを願おう。

 ルールを吟味したのちに、マキセへ連絡を送った。返信は速やかだった。五分後に端末の着信音が鳴り、次の休日には小旅行の詳細な説明を受けた。

 宇宙をまたぐといっても基本的には通常のバカンスと大差なかった。移動装置のある研究所までは飛行機とリニア線を併用して向かう。問題は所要日数だ。宇宙の行き来には時空間の誤差が生じるらしい。起点と終点に装置を置くことで空間誤差は極力なくなったが、時間のずれは解決していない。試運転の結果、最短で三日の往復分、最長で半年の往復分、超過してしまうと説明された。

 長くて一年かかると聞いて従容しょうようとしていられるほど、カスミは器量人ではない。一年という期間が過去の事例の一つにすぎないことも懸念事項だ。運が悪い方向へ働けば、もっと大きな誤差に巻き込まれる恐れがある。

 とはいえ今さら「行かない」という選択肢は出てこなかった。さみしさと憂いに蓋をして、卒業以来ずっとお世話になった会社に辞表を提出した。自然な流れで、新しい勤め先はカスミの帰還後、マキセを通して権力機構の助力を得る運びになった。

 事前に決めたルールをこんな序盤から適応する事態になるとは意想外で、改めてルールの重要性を実感した。

 常識外の扉が開こうとしている。場合によっては、カスミの経験則が役に立たず、常識が通用せず、人間の倫理に触れるような判断を求められるかもしれない。そんなとき、状況に踊らされず考えぬき、決断し、行動する力が必要になる。ルールは意思決定のリトマス試験紙の役割を果たすだろう。もちろんそのような状況に陥らないことが最善ではあるのだろうが。

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