第3章(7/10)

 駛良は箸を置くと、居住まいを正す。


「詳しいことは話せねえんだが……この先、もしかすると〈五稜郭〉の中でドデカい花火が打ち上げられるかもしれねえんだ。俺は、それをどうにかしねえといけねえ」


 少女の顔を直視し続けることができず、自然と駛良は顔を逸らしてしまう。視線が部屋の中を彷徨い、やがて物言わぬ電信機に焦点が定まる。


戦地シベリアから引き揚げて、もう三年になるっつーか、まだ三年しか経ってないっつーか、そこは自分の中でも微妙なんだが……正直な話、ちょっと持て余している感はあったんだ。大勢の人があそこで死んだのに、俺はどうしてんだろうって――」


 生き残った、などと驕るつもりはない。生き残れた、などという幸運の産物でもない。


 駛良は確信を持って答えられる。自分は〝生き残らされた〟のだと。


 ――「あたしはきっと、君を守って死ぬために、生まれてきたんだよ」


  ふと頭の中に響いたのは、かつて共に極寒の大地を踏み締めた少女の声音――その最期に紡 ぎ出された言葉。少年を戦場から本土へと舞い戻らせた、あまりにも重過ぎる翼。


 伊江奈喜古。綸子の姉代わりであり、そして駛良の命をも救ってしまった存在。


 彼女の想いに、どうすれば応えられる。彼女の覚悟に、どうすれば報いられる。

 今日に至るまでの三年、ずっと考えていた。


  迷いながらも、足を止めなかったのは――がむしゃらに正義を貫き通したのは、自身を生か すために燃やされた命を穢さないため。駛良に託されたその魂を、美しく輝かせ続けるため。


 そして――ようやく答えを得た。 少年の視線が眼前の少女に戻される。花鶏はいつの間にか俯いてしまっていて、駛良の目に はその形の良い旋毛が留まる。


「花鶏。俺はきっと、お前を守って死ぬために、生まれてきたんだ」


  その決意を口に出した途端、ふわり、と胸が軽くなるのを感じた。 吹雪が止んで、空から晴れ間が覗いたかのような――。 花鶏は微動だにしない。けれども、不思議ときちんと言葉が届いている確信があった。


 花鶏に更なる痛みを強いるようになることに、申し訳なさを覚えないでもない。けれども駛 良の知っている花鶏は、それを乗り越えて前に進んでいける人間だ。恥ずかしいので本人には絶対に言えないが、少し憧れてすらいる。


 反対に、花鶏の中で駛良がどのように捉えられているかなど、駛良には知る由もない。なればこそ、と駛良は拳を握り締める。せめてその最期くらいは、彼女の誇りになれるよう、華々しく散ってみせようと思う。それぞ武家士族に生まれた者としての本懐であり、覚悟だ。


  ――と、駛良の視線の先で、旋毛が微かに揺れ動いた。

 やがて、その肩までもがふるふると震わされていく。


「…………」


 む、と駛良は息を詰めた。

 花鶏は強い。それは確かだ。しかし――強いからといって痛みに鈍感なわけではない。むしろこの少女は涙もろいくらいだ。


 泣いて、いるのだろうか。――つと不安に駆られる。


 思わず、柄にもなく慰めの言葉が口を突いて出そうになるが、自分が言えた義理などではないと、慌てて呑み込んだ。


 それに花鶏ならばきっと。

 駛良の知る限り誰よりも強いこの少女ならば、たとえ泣き笑いのように不細工な顔を晒してでも、幼馴染の旅立ちをしっかりと見送ってくれるはずだ。


 やがて、


「……のよ」


 下を向いたままの少女から、言葉が紡ぎ出された。掠れていてよく聞き取れなかったが。


 急かさずに少女が落ち着きを取り戻すのを待っていると、今度はかろうじて聞き取れるほどの声が絞り出された。


「……なこと、言ってるのよ」


 駛良が違和感を覚え始めたのは、大体この辺りからだ。

 確かに声は震えている。が、涙に濡れている様子はない。


 おや、と内心で疑念が首をもたげるのも束の間、


「何を莫迦なこと言ってるのよッ――!」!


 部屋全体を震わせる勢いの怒声が炸裂すると同時、ぐわっ、と少女の首が跳ね上がった。


 まっすぐ駛良を見据える花鶏の顔は、頬が真っ赤に紅潮していて、額にはぴきぴきと青筋が浮かび上がっていた。


 戦場でありとあらゆる人間の表情を目の当たりにしてきたつもりだったが、ここまで目に見えて激怒している人間とは初めて出くわした。

 憤怒の形相と言えば不動明王を思い出すが、今の花鶏を前にすれば、如何な悪鬼羅刹を震え上がらせてきたかの明王とて、涙目で逃げ出すことだろう。


 というか、駛良が逃げたくなるくらいに怖かった。できなかったのは、あまりもの恐ろしさに身が竦んでしまっていたためだ。


 驚くなかれ、駛良の認める〝最強〟の少女は、一切の魔力を用いることなく、駛良の体を縛り上げてみせたのだ。この拘束力に比べれば、昼間に受けた二室戸の金縛りの術など、児戯にも等しかった。


 そして、花鶏の攻勢はまだ終わらない。


「さっきから黙って聞いてたけど、あなた一体何様のつもりなの?一人で世界を救う勇者様でも気取ってるの? そんなのただの自惚れよ! あなた一人の力でどうにかなるほど世界はちっぽけじゃないの!」


「いや……」


「第一、どーして生き残らされたとか何とかうじうじ言ってたけど、要するにみんなと違って自分一人が生き残ってるのが恥ずかしいだけでしょ? 変な色眼鏡で見られて注目されるのが嫌なだけでしょう? 別にいいじゃない、生き残ったんだから! まだ命が残ってる分、それくらい我慢しなさい!」


「あの……」


「で、挙げ句の果て、わたしを守って死ぬために生まれてきたんだぁ?」


 と、ここで大きく息を吸う花鶏。


「――――冗談じゃないっての!!」


 鼓膜が破けるかと思うくらいの大音量が響いた。部屋の空気がびりびりと震えるのを肌で感じる。


「自分の命をどんだけ安く見積もってるのよ!? わたし一人を生き残らせるためだけに高い税金巻き上げてるわけじゃないでしょ!! 武家士族様はわたしと言わず国を守りなさいよ!! ついでに死ぬんじゃなくて生き残ってみせなさいよッ!! 闘って闘って闘って闘って闘って闘って闘って闘い抜いて畳の上で大往生するってくらいのことを嘯いてみなさいよっ、この大莫迦ウジ虫たくあん中毒野郎――――ッ!!」


 そんな怒濤の勢いでがなり立てられた罵詈雑言の嵐をやり過ごした末。

 駛良の中では、ぐわんぐわん、と目が回り、きぃん、と酷い耳鳴りが頭の中を掻き乱していた。茫然自失とさせられたこと幾許か。


 果たして思考が正常な状態を取り戻す頃になってみると、六畳間の部屋の中、花鶏の姿はもうどこにも見当たらなかった。


 座卓の上には、二人で手を付けた料理が並べられたまま。二人が端を止めたその状態のまま、時間が止まっていたかのよう。


 唯一の違いはと言えば、部屋の扉が半開きになったままということくらい。どこからか寒風が吹き込んできているような気はしていたが、これが原因だったのか。


 冷たい風が柔らかに頬を撫でるのが鬱陶しく、駛良はゆるりと立ち上がる。

 部屋の扉を閉める前、わずかばかりの期待と共に外に首を出したが、吹きさらしの廊下はやはり無人のままだった。


 よもや、と少年の唇から呟きが零れ落ちる。


「これが花鶏の姿を見た最後、だなんてことはないよな……?」


 ぴゅう、と真冬に逆戻りしたかのような冷たい風が、駛良の背筋を凍り付かせた。

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