第3章(6/10)
それから、どこをどうやって帰ってきたのかは、あまり覚えていない。
ふと気づけば、〈昼晴荘〉の二階にある自分の部屋に戻ってきていた。
迂闊だったな、と駛良は嘆息を漏らす。〈五稜郭〉内のどこに敵の目が潜んでいるか解らないこの現状、一瞬たりとも気を抜いてはいられないというのに。
と思った矢先、こんこんこん、と部屋の扉が叩かれる音がして、弾かれたように駛良は振り返る。敵襲か――そんな予想が脳裏をよぎる。乱れる呼吸を整え、打刀に手を掛ける。
相手の出方を窺うべく駛良が無言を貫いていると、果たして扉の外から聞こえてきたのは、
「シロくん? もう寝てるの?」
花鶏の声だった。が、駛良は依然として警戒を解かない。誰かが花鶏の声と口調を真似して駛良の油断を誘おうとしているのかもしれない。魔法を使えば、その程度の偽装工作など朝飯前だ。
「合言葉は?」
駛良の問いかけに、しばし扉の向こうを沈黙がよぎる。やがて困惑したような声が紡いだ言葉は、
「……〝お前の母ちゃん出べそ〟?」
「こんな餓鬼の頃の遊び、よく覚えていたな」
あの頃はその悪口の意味もよく知らずに使っていたなぁ、と大昔のことをしみじみと思い起こしながら、駛良は扉を開けた。案の定、そこには花鶏が立っていた。
「いきなり変なこと言わせないでよ、恥ずかしい」
「悪い。こっちにも色々と都合があってな」
「ふうん? まぁ、いいや。入るよ」
言うなり、花鶏は駛良の返事を待つことなく、駛良の体を押し退けて部屋の中へと立ち入る。
その両手には大きな盆が携えられており、夜の〈でろり庵〉で提供されるような軽食がいくつも載せられていた。もちろん山盛りのたくあんも用意されている。
夜ご飯まだでしょ、と花鶏は座卓の上に放り出されていた小物や書類を片づけると、サンドイッチやスープなどを並べていく。その手際の良さは、さすがは〈でろり庵〉の看板娘といったところか。が、いくら軽食とはいえ、その量はあからさまに多い。
「もしかして、お前もここで食べていくのか?」
「うん。駄目だった?」
「いや、別に駄目っつうことはねえけど」
なら問題ないよね、と花鶏は座卓の前に腰を下ろし、合掌する。そのまま視線だけで立ち尽くしている駛良にも行動を促してくる。
為されるがままに、駛良も花鶏の前で彼女の仕草に倣うと、「頂きます」と声を揃えた。
花鶏の持ち込んだ料理に舌鼓を打ちつつ、駛良は彼女の様子を窺う。
昼間、二室戸が〝あなたの親しい方々〟と口にした途端、駛良の脳裏をよぎったのは、自分でも意外なことに花鶏の笑顔だった。
実際、二室戸の手が届くだろうこの〈五稜郭〉の城内で、一番失わせたくない命があるとすれば、確執のある父親などではなく、確かに花鶏かもしれない、と今になって気づいた。
なあ、と少年は眼前の少女に呼びかける。
「今日は……何かおかしなこととかは、なかったか?」
花鶏はきょとんとした顔をすると、
「ん、シロくんの様子がいつもよりおかしかったくらいだよ」
「いつも〝より〟ってなんだ、〝より〟って。……まぁ、特に気になることがなかったなら、それでいい」
ただ、花鶏がわざわざこの部屋で駛良と夕食を共にしている理由は、何となく想像が付いた。
知らず肩を落としていたのだろう駛良を、彼女なりに励まそうとしてくれているのだろう。
バカ鶏の分際で生意気な、と小声で呟く。幸い花鶏の耳にまでは届かなかったようで、
「え?何か言った?」
「いや、何でもねえ」
誤魔化すように、駛良は卓上のサンドイッチに手を伸ばす。
「旨いな、これ。
「……うん、シロくんの口に合って良かったよ」
花鶏は引きつった笑みを浮かべていたが、駛良は今更とやかく言わなかった。
そう言えば、と花鶏は話題を変えるように切り出す。
「綸子ちゃんとは、ちゃんと仲良くしてるの?」
「あいつはただの同僚だ。別に馴れ合う必要はねえだろ」
駛良はあの少女のことを、わりと本心から好いていない。具体的にどこか、と言うのも難しいのだが、とにかく根本的に反りが合わないのだ。
目に見えて不機嫌になる駛良に、そういう意味じゃなくて、と花鶏は唇を尖らせる。
「そりゃ馴れ合う必要はないかもだけど、ギスギスしているよりは和気藹々としている方が仕事はしやすいでしょう? 何なら今度、うちで親睦会でも開こうか?」
「余計なお世話だ。第一、あいつは短い間研修に入っているだけだ。今月中に確実に居なくなる」
本人から直接聞いたわけではないが、隊附実習の予定から考えて、まず間違いないだろう。
四月からは、今度は士官学校の本科に上がるはずだ。
そうなんだ、と花鶏は得心がいった様子で頷いた。と、不意に頬を緩める。
「四月か……シロくん、約束覚えてるよね?」
「約束? 何かあったか?」
「ほら、桜が咲いたら一緒に見に行こうって、前に言ってたでしょ」
「ああ、あれか」
思い出した。但馬が事件を起こした翌朝のこと――まだ駛良が事態の深みにまるで気づいていなかった頃の話だ。あれからまだ一週間も経っていないはずだが、それ以後の日々の密度が濃過ぎて、随分と前のことに思えてしまったくらいだ。
ただ――駛良を取り巻く日常がどれだけ激変したところで、花鶏の日々は大きくは変わっていない。もちろん彼女も知人を喪った痛みを胸に秘めていることだろうが、それでもこうして前を向いて生きている。歩みを止めることはない。この娘は強い、と駛良は心底から思う。
守りたい。まるで向日葵のように太陽を見失わない、この少女の日常を。
そのためにも、この〈五稜郭〉を二室戸の魔手で覆わせるわけにはいかない。その指の一本たりとも、花鶏に触れさせてはならない。
――花鶏、と少年は静かな声で呼びかけた。
「なあに?」
微笑みと共に、こくり、と小首を傾げる幼馴染の見慣れた仕草が、この瞬間に限っては妙に愛おしく思えてしまう。だからこそ、今からそれを突き崩す言葉を放たなければならないことに、駛良は我知らず胸に痛みを覚えてもしまっていて――。
逡巡は一瞬、駛良は意を決して告げる。
「悪い。その約束、守れそうにねえ」
笑顔のまま、少女の表情が固まった。
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