第3章(8/10)
翌日――三月二十五日の朝。〈でろり庵〉の店内に花鶏の姿はなかった。
朝食を共にする他の下宿人たちは、一様に残念そうな顔をすると同時、恨めしげに駛良を見やる。駛良としても無言で首を竦めることしかできない。
誰にとっても理由は明白だった。昨夜の花鶏の怒声は、きっと建物全体に響き渡っていた。
なので原因の一端は駛良にあると言えなくもない。いや、結果として花鶏が怒り狂ってしまっただけで、それを引き出した元兇はやはり駛良以外に他ならないということになるのだろう。
それでも、下宿人たちが面と向かって駛良に物を言わないのは、二人が幼馴染だというその関係性を知っているがゆえか。ただ、ひそひそとした話し声の中に、夫婦喧嘩は犬も食わぬ、などという慣用句が紛れ込んでいたところは少し気に掛かったが。
「夫婦じゃねえっての……」
言いつつ、駛良は
「隣、いいかな?」
掛けられた声に、俯き加減になっていた駛良は顔を上げる。店主にして花鶏の父親である鷹寛だった。
どうぞ、と駛良が首肯すると、では失礼、と律儀に言い置いてから、鷹寛は
「昨夜は大変だったみたいだね。あまり顔色が優れないようだけど、ちゃんと眠れたかい?」
「え、ええ、まぁ……」
曖昧に頷く駛良。娘を怒らせたことについて父親の反感を買ってしまったのかもと危惧したが、鷹寛の態度は常と変わらず落ち着きを払っていた。
と思いきや、
「娘が迷惑を掛けて済まない」
そう言って鷹寛が頭を下げるので、駛良は慌てる。
「い、いえ! 怒らせたのは俺の方ですから!」
「だとしても、花鶏の言い方が悪かったことに変わりはないよ。そこは父親として、あの子の代わりに謝らせて欲しい」
そうまで言われると、駛良としては、はぁ、とだけでも頷かざるを得ない。
ただ、と鷹寛は苦笑を滲ませた。
「言い方は悪かったのだろうけれども……花鶏は人を傷つけるような子ではないと――いつも誰かの幸せを願っている子だと、私は親として信じている」
「それは俺も同じですよ」
自分でも意外なほどに、すんなりとそんな言葉が出て来ていた。
「俺、昔からよくあいつに叱られてたから、ちゃんと解ります。……そう、あいつは俺を叱ってるんであって、俺に怒ってるんじゃないというか、いや、昨夜はさすがに怒ってもいたような気もしますが――」
思いが巧く形にならないことがもどかしい。このような場面では自分の語彙の貧弱さが恨めしくなる。縋るように鷹寛の顔色を窺うと、さすがは花鶏の父親と言うべきか、解っているよという柔らかな笑顔と共に鷹寛は頷いていた。
それで安心できたところで、同時に駛良は胸の中でつっかえているものも打ち明ける。
「けど正直な気持ち、どうしてあいつがあんなに怒ったのか。俺の何がいけなかったのか。そこが、解るような解らないような……やっぱりまだよく解っていないんですけど」
そうなんだね、と鷹寛は静かに頷いた。責めてはこないが、慰めてくるわけでもない。ただ駛良の心の整理に付き合ってくれている。それはきっと、優しさの為せる業。
それに甘えて、駛良はしばし無言で考え込むが、やがてお手上げだとばかりに項垂れた。
「すみません。今の俺にはまだ、花鶏の言葉を受け止められるだけの器量がないみたいです」
「私はそうは思わないけどね。君はきっと、自分の器の大きさを自覚できていないだけだよ。足下を踏み固めることも大事だけれども、時には周囲を見回してみることも必要だ」
「それって、自分で想像している以上に俺の器がデカいって言ってますよね。それこそまさかですよ。買い被りでしょう」
「なら、少なくとも私は君をそう信じている、ということでどうかな。これは私自身の感想だから、君に指図を受ける謂われはないよ」
そう言って、鷹寛は気取った風に片眼を閉じる。その仕草があまりにも様になっていて、思わず銀幕の中から飛び出してきた俳優かとも見紛ってしまったところだ。
若人よ、存分に悩みたまえ、と鷹寛は励ますように駛良の背中を叩くと、再び仕事へと戻っていった。
はぁ、と人知れず駛良は溜息をつく。
悩みたいのは山々だが、今はそうも言っていられない状況なのだとは、さすがの鷹寛にも打ち明けるわけにはいかなかったからだ。
駛良は定食の残りを掻き込むと、分厚い曇り空の下へと足を踏み出す。
花鶏が駛良の幸せを願っているというならば、駛良は花鶏の幸せを願うからこそ、この身を捧げようと心に誓ったのだ。そう易々と曲げられる決意ではない。
少年は決死の覚悟を胸に抱き、陰謀の渦巻く〈五稜郭〉の中央へと歩を進める。
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