幕間
それは今から一年と半分ほど前のことだ。
帝暦一九二一年――応天十年八月。
その夏、但馬陽は八神駛良を見つけた。
◆
「あぁもう一度言ってみやがれテメェ!」!?
蝉時雨が降り注ぐ炎天下。うだるような暑さの中、そんな叫び声が但馬の耳朶を打った。
公休日とあって、〈五稜郭〉城外――龍敦市中に繰り出していた折のことだ。振り向いた但馬の視界に飛び込んできたのは、漬物屋の店先で口論する二人組。
茹で蛸のように禿頭までもを真っ赤にした店主と、こちらは山猫のような太々しさを滲み出させた少年だった。
おや、と但馬が眉を曇らせたのは、その少年が腰に打刀を帯びていたからだ。
小袖に洋物の
士族と平民が諍いを起こすのは、あまり外聞がよろしくない。場合によっては仲裁に入るべきかもしれないと、但馬は脳裏に結界の術式を思い描く。
と、改めて口を開いた少年から発された声音は、思いのほか冷静だった。
「何度でも言ってやりますよ。この店のたくあんは、不味い」
冷静――なのだが、その内容は何の捻りもなく直裁だった。店主を目の前にはっきりとそう言ってのける少年の胆力に、かえって感心してしまうくらいだ。いや、もちろん褒められたことではない気もするが。
あまりにも堂々とした少年の物言いに、禿頭の店主は言い返すべき言葉を見失ってしまった様子で、わなわなと唇を震わせている。
すると少年は、口をへの字に曲げたまま、更にこう続ける。
「だから、一週間後にまた来ます。その時もう一度食べて旨かったら、前言を撤回します」
少年は、ぺこり、と頭を下げると、そのまま店の前を離れた。一昨日来やがれっ、という店主の叫びが向けられた背中に突き刺さるが、少年は身じろぎもしなかった。
そして但馬もまた、見逃さなかった。少年を見送った店主が、何やら考え込むように俯くのを。
それから一週間が経った。少年が一方的に告げた約束の期日だった。
その日、但馬は公休ではなかったのだが、たくあんを巡る小さな騒動の続きが気になり、居ても立ってもいられなくなってしまって、つい適当な用事を口実にして城外へと飛び出してしまった。
例の漬物屋に赴くと、何たる偶然か、折良くくだんの少年もその場に現れたところだった。
少年もまた、その日は軍服姿だった。だが但馬たちの纏う濃緑色のそれではない。
黒衣――公正義勇を象徴するその唯一色は、憲兵科だけに与えられたもの。
同時、唐突に但馬は思い出した。やはり憲兵科に務める彼女の恋人の下に、先日より新しい部下が加わったという話を。
――「山猫みたいに太々しい顔をした餓鬼なんだが、存外根は誠実なんだよ、これが」
あの少年は、恋人の言う新しい部下と背格好や特徴が見事に合致していた。ということは、あの少年こそが、
「八神、駛良――」
ふと、但馬の口からその名前が漏れる。
漬物屋の店主は、まるで少年――駛良の登場を待ち構えていたかのようだった。
その不機嫌そうな顔つきは先日とあまり変わらない。が、その手には黄金色の半月を載せた皿が携えられている。ただ、三切れであるのは、士族である少年に対する皮肉だろうか。
しかし少年は特別気を悪くする風もなく、頂きます、と律儀に言い置いてから、騒動の種となっていた漬物に箸を伸ばす。
たくあんを口に運び、咀嚼する。ただそれだけの行いを、無関係の但馬までもが、固唾を呑んで見守ってしまった。
果たして、
「旨い。樽一杯寄越せ」
少年の目は本気だった。
無謀な要求に、店主はまた激怒してしまっていた。
正直に言おう。当初、但馬は駛良の言葉を信じていなかった。
――「だから、一週間後にまた来ます」
その場しのぎの出任せに過ぎないと、頭のどこかで勝手にそう決め付けていた。
しかし、駛良は本当に現れた。ばかりか、おそらく店主が改良を施したのだろう新しいたくあんに対しては、一切難癖を付けることなく、むしろ素直に絶賛していた。
あの少年は、どこまでも自分の言葉に忠実だった。根は誠実だという恋人の言葉の意味を、但馬自身、肌で感じ取った。
だから但馬は思ったのだ。
常々〝正義〟という言葉を口にしているのだというあの少年ならば、或いは――と。
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