第2章(10/12)

 尼港包囲戦。それは氷雪に閉ざされた軍港都市において繰り広げられた、戦闘という名の虐殺だ。


 シベリア一帯を占める極東共和国は、八洲帝国の自治領に端を発する国家であり、その関係上、帝国は戦火に晒される共和国を援護する義務があった。尼港に帝国軍が駐留していたのも、元はと言えばそのためだ。


 実のところ、極東共和国を侵攻していたモスクワ大公国は革命によって既に斃れていた。それはそれで国際秩序をも揺るがす大事だったが、ともあれ交戦国が消滅したことで、戦争にも終止符が打たれるだろうと、誰もが予想していた。


 ところが、歯車は突如として狂い始めた。


 革命軍の発足に伴って発生した盗賊崩れの農兵パルチザンたちが、国際法や慣例を無視した暴挙に及んでいたのだ。帝国軍は農兵掃討のために戦闘を続行せざるを得なかった。


 実のところ、農兵の背後には大戦当時中立を宣言していたはずの秦国が潜んでおり、二十世紀初頭の戦争で帝国に打ち破られた彼らが雪辱戦を期していたとは、当時から指摘されていたことでもある。 ――そんな折に起きた惨劇が、尼港包囲戦だった。


 農兵たちは、尼港が極寒期にあって交通が遮断されていたことを攻略の好機と見るや、四千名もの兵士を率いて侵入してきた。抗する尼港側の兵力はおよそ五百名程度だったと伝えられている。


 即席の農兵部隊を相手に歴戦の帝国軍人たちは奮戦するも、やはり多勢に無勢という真理は覆すことが敵わず、その進軍を阻むことは敵わなかった。


 加減を知らない農兵たちは、蝗もかくやという勢いで尼港を蹂躙した。


 軍人も住民も分け隔てすることなく平等に殺戮していった。女は殺される前に犯されたことなど言うまでもない。それでもさすがに子どもを直接手に掛けることには抵抗があったのか、 幼子たちは穴の中に生き埋めにするという手法が採られていた。農兵たちに歯止めを掛けられる者は居なかった。


 被害を受けたのは人間ばかりではない。占領という概念のない農兵たちは街そのものを滅ぼそうとしていた。立ち並ぶ建物は悉く打ち壊されて、そこにはもはや荒野とさえ比定できるほ どの一面の廃墟が拡がった。


  ――「なるほど。我らの崇める神に人類ひとを救う機能ちからはない、ということですか」


 雪解けと共に尼港へと駆けつけた帝国の救援軍の一員が漏らした言葉である。




「ここだけの話、おれはあん時の更地を見て思ったのさ。ああ、ここには身分の貴賤も何もねえなあ、ってな。――そう思ったら、士族だ軍人だ何だってのが急に莫迦らしくなっちまったんだよ。お? もしかしておれが無政府主義者になった理由、今初めて暴露したんじゃね?」


「そいつは自供と受け取ってもいいんですか?このまましょっ引きますよ?」


「そりゃないぜ、シロ助。よし。じゃあ今のは冗談ってことにしておこう。おーけい?」


「シロ助言うなっ!」


 棒付き飴玉を咥えたまま、ぎろり、と鋭い視線を向ける駛良に、大杉は「おぉ、怖ぇ」とおどけたように首を竦める。


 空になった大杉の猪口に、流れるような動作で遊女が徳利から酒を注ぎ出す。大杉はそれをゆっくりとした動作で口許に運ぶ。ふぅ、という溜息は過去を懐かしんでのものか。


「今更だが……お互いよくもまぁあの激戦のさなかをくぐり抜けられたもんだ。どうだ、おまえも乾杯するか?」


「俺は未成年ですので。……それに、あんたの方はどうだか知りませんが、俺はあの場にあんたが居たことを、あまり覚えてないんですよ」


「だろうな。あん時のおまえにゃ、周りに気を配れるほどの余裕なんざなかっただろうし」


 だからこそ生き残れたのかもしれねえが、と大杉は皮肉っぽく付け加えた。駛良は反論こそしなかったが、きっ、と大杉を睨め付ける。


 一方、綸子は二人の男の間で視線を彷徨わせながら、そわそわと身じろぎしている。どこか戸惑っているようにも見える。


「言いたいことがあるならさっさと言え」


 今は周りに気を配れるほどの余裕があると、敢えて駛良は綸子に誘いかける。しかし綸子は「にゃっ!?」と驚いた顔をしたかと思えば、


「べっ、別に言いたいことなんてないわよ! それとも何? 戦地に行ったのがそんなに偉いの? 私が本土に留まって後方支援してたのだって、ちゃんと上からの命令に従ってのことなのよ! 見下される理由はないわ!」


「いや、誰もそんなこと言っちゃいねえよ……」


 事情は全く解らないが、何やら綸子にとって触れられたくない部分に触れてしまったようだ。


 確かに、先の大戦において、兵士は男女の区別なく出征させられている。

 しかし平民でなく士族――それも士官学校に入学できるほどの才媛となれば、まだ安全な本土に留め置いておくというのは、ごく当然の判断だろう。誇りこそすれ恥じることではない。


 しかし綸子は、むきーっ、となぜか駛良に八つ当たりじみた敵意を向けてきている。

 この場で綸子に恨まれる謂われなどない、と駛良が困惑していると、


「違うんだよ、シロ助。その嬢ちゃんが言いてえのは、たぶん――こういうことだ」


 大杉は面白がるように喉の奥で笑いながら、ぱちん、と指を鳴らす。


 同時、駛良の手も腰に帯びた打刀へと伸びる。そのまま腰を上げつつ抜刀。

 居合い――座位から繰り出される抜刀の所作。その剣閃が抜き付けに弾いたのは、綸子を目掛けて飛び道具さながらに撃ち出されただった。


 思考するよりも早く反応していた駛良は、理解が追い着いたところで、その事実に軽く瞠目する。あははっ、という女の笑い声は後ろに控える伊藤が発したもの。


 当の遊女は、依然として感情の籠もらないのっぺりとした笑みを浮かべており。


「花魁姿の……自働人形?」


 この期に及んで、ようやく駛良はそんな遊女の正体に気づいた。今の今まで大杉に気を取られる余り見落としていたが、遊女は先ほどから一度も口を開いていなかったではないか。


「応よ。でもって、そこの箱入りの嬢ちゃんにはこの不意打ちは防げなかった。……嬢ちゃんはそれが悔しかったんだよ」


 そうだ。遊女の鉄拳は決して駛良を狙ったものではなかった。はっとして、駛良は咄嗟に庇った綸子を振り返る。少女は目を見開いたまま、冷や汗を拭うこともなく固まっていた。


 彼女のように、自分が流れ弾に当たったことにも気づかないまま死んでいく間抜けを、駛良たち〝生き残り〟は何度見送ってきたことか。


 つーわけで、と大杉の声が響く。


「まずはこいつを仕留めてみせろ。話はそれからだ」


 その言葉と同時に、遊女がゆらりと立ち上がる。きゅるきゅる、という音と共に、撃ち出された拳に繋がっていた索条が巻き取られる。亀裂が走った白い手からは、人ならざる鈍色の骨格が垣間見えていた。


 焦点の合っていない硝子の双眸が駛良を見据える。自働人形は、その口角だけを、軽く吊り上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る