第2章(9/12)

 そこは二十畳は下らない大きな部屋だった。一人で使うには持て余すだろうとさえ思うのだが、見方を変えればその余裕こそが財力や権威の象徴ともなる。


 高級妓楼〈壱葉〉の貴賓室、その当代の主――大杉栄の姿は、案の定と言うべきか、部屋の最奥にて片胡座を掻いていた。


 金と紅の衣装が眩しい傾奇者。街中で出会えば巫山戯ているとしか思えないその風体は、妓楼というこの異界の中にあっても、やはり奇抜過ぎて浮いていた。生まれてくる時代を間違えているのではないだろうか。


 傍らに遊女を一人侍らせながら、冷酒の注がれた猪口を傾けていた大杉は、駛良たちの姿を認めると、


「よぅ、お疲れさん!」


 まるで飲み会の最中に知己の相手を見つけたかのような調子で酒杯を掲げた。思わず脱力させられてしまったのは言うまでもない。が、それもまた大杉の処世術なのだろう。


 駛良は、脱いだ帽子や外套を綸子に押し付けると、不満げに喚く綸子の声を聞き流しながら、つかつかと大杉の前へ歩み寄る。


 あの雨の日の別離から、まだほんの数日しか経っていない。にもかかわらず、幾星霜もの時を数えたかのような重圧が駛良の肩にのし掛かっている。


 聞きたいことや、確かめたいことが、いくつもある。――今にも激情が溢れ出そうになる。


 抑えろ、と駛良は内心で自制する。ここで我を失ってしまっては、先日の二の舞だ。


 したがって、最初に発するべき言葉は、


「どうも、あの夜以来ですね。つーわけで死んで詫びろ」


 息を吐くように飛び出してしまった駛良の暴言を、大杉は呵々と愉快げに笑い飛ばす。


「相変わらず物騒な面構えしてんな。そんなだと女にモテねえぞ、なぁ?」


 大杉は傍らに侍らせる遊女に問いかける。遊女は笑みを崩さぬままこくりと首を傾げた。 ――花魁。素人目には、そう呼ぶしかないくらいに、豪華絢爛に着飾った女だった。


 しかし一方で駛良は思わざるを得なかった。趣味が悪い、と。


 なるほど見目麗しくはあるだろう。しかし生気というか妖気というか、とにかく何かが足りないのだ。花魁ともなれば、数多くの男どもを手玉に取ってきた生ける伝説であろうに、彼女にはそのような傑物に特有の覇気をまるで感じられない。まるで、血の通わない人形のような ――。


「ちょっと! 人を除け者にして二人だけで話を進めないでよ!」


 急に綸子が割り込んできて、駛良の思考は中断を余儀なくされる。


 振り返ると、白粉の塗られた肌に微かな朱を浮かび上がらせた少女が、肩を怒らせながら近づいてきていた。その後ろには、伊藤がにまにまと傍観者を決め込んでいる。


 んん、と大杉が首を傾げた。


「そっちの新造は見ねえ顔だな。新入りか?」


 失礼なっ、と綸子は振り袖姿のまま腰に手を当てて仁王立ちする。


「私は土橋綸子伍長、れっきとした帝国軍人よ。……あなたとは違ってね!」


 最後の一言は、軍を脱走して反政府勢力に鞍替えした大杉への当て付けだろう。綸子としては一丁前に挑発したつもりなのかもしれないが、当の大杉は「おうおう、威勢がいいねえ!」と全く気に留めていない。


「土橋ちゃん? そいつ基本的に莫迦だからさ、自分のこと何て言われようといちいち気にしないのよねぇ。真面目な反応を期待しても取り越し苦労で終わるだけよ」


「そりゃねえだろ、野枝ちゃん。せめて大らかと言ってくれ」


「いや、大らかってのは器の大きな人に対する褒め言葉だから。エイちゃんはただの莫迦」


 あんなこと言うんだぜ、どう思うよシロ助、と大杉は唇を尖らせる。


「シロ助言うな」


 口では平静を装いつつ、駛良は伊藤の大杉に対するざっくばらんな態度に内心目を丸くする。


 これまでの、伊藤の大杉に対する口振りから、二人が知り合いだろうとは予想していた。が、よもやここまで明け透けに者を言えるほどの立場だとは思っていなかった。


〈奇兵隊〉の内実には未だ不明な点が多いが、この様子だと、伊藤がその幹部級の構成員であっても不思議ではないかもしれない。


 そいつはさておき、と大杉は遊女に酌をさせた猪口を呷る。


「野枝ちゃんを使ってわざわざおれに会いに来たっつうことは、何かおれに聞きてえことがあるんだろう?ん?」


 にぃ、と大杉は口の端に犬歯を覗かせる。むろんこの男とて先日の一件を覚えていないはずがない。きっと、駛良の目的を察知している上で、わざととぼけているのだろう。


 つまらない意地の張り合いをするつもりはない。駛良は目許を引き締めると、


「単刀直入に聞きます。あんたが勾田准尉を殺したのか?」


 ふ、と不敵な笑みを零す大杉。とりあえず座れよ、と促されて、駛良はその場に正座し、綸子もそれに倣う。伊藤は邪魔にならないようにか、少し離れたところに腰を下ろしていた。


 大杉は顎をさすりながら駛良に値踏みするような視線を送っていたが、やがておもむろに口を開く。


「違う。――と言ったところで、おまえは信じてくれるのか?」


「…………」


 可とも否とも、即答はできなかった。信じるに足る根拠はないが、かといって疑いを抱き続けられるだけの確証もない。


 あの雨の日の夜、駛良が見たのは、あくまで既に事切れた勾田の傍に佇んでいた大杉だ。あの場では頭に血が上って思わず大杉に斬りかかってしまったが、冷静さを取り戻した今では、その判断は短絡的だったかもしれないと反省している。


 沈黙する駛良に焦れたのか、綸子が横合いから口を挟んでくる。


破壊活動家テロリストなんかの言うことにいちいち惑わされてるんじゃないわよ、八神。こんな奴、さっさとしょっ引いちゃえばいいじゃない」


「ははっ、そいつぁまた乱暴な理屈だねぇ。ま、おれはそんなじゃじゃ馬も嫌いじゃねえけどよ」


「別にあんたに好かれようだなんて思ってないわよッ!」


「うるせえぞ土橋」


「なんで私が怒られるのよ!?」


「そーやっていちいち騒ぎ立てるからじゃないの? 土橋ちゃん」


「外野こそ黙ってなさいよ!」


 本当にやかましいな、と駛良はその場の緊張も忘れて遠い目をしてしまう。振り向かずとも気配だけで、にゃあああっ、と綸子が目を三角にして怒っている様子が伝わってくる。

 良くも悪くも、悩んでいるのが莫迦らしく思えてきた。

 

心は決めかねずとも、ひとまず何かしらの返事はしておこうと口を開きかけたところで、


「――遅ぇよ」


 そんな、妙に鋭い語気が駛良の言葉を遮った。大杉の様子が一変していた。


 笑みを浮かべていることに変わりはない。姿勢も依然として寛いでいる。しかし纏う空気だけは、場を凍り付かせるほどに冷たい。姦しかった綸子でさえ、一瞬で言葉をなくしていた。


 大杉は猪口を膳の上に置くと、空いた手で立てた片膝に頬杖を突く。


「二つに一つの答えを返すのに、どんだけ時間を掛けてんだ。復員してから鈍ったんじゃねえのか?」


 ここが尼港なら、ちんたらしてる間に首が飛んでたぜ――と大杉は嗤う。


 同時、どくり、と駛良の心臓が一際大きく跳ねた。胸が熱くなるのに反比例して、頭の中は冷めていく。脳裏にシベリアの寒空が甦る。


 そんな駛良の傍らでは、今度はどうしてか綸子が顔を蒼褪めさせている。


「復員? 尼港? ……八神、貴方まさか――」


 そうか、と駛良が得心したのは、大杉栄という男の経歴――軍歴を思い起こしてだ。


「あんた尼港の生き残りだったんでしたっけ、大杉」


「応よ。懐かしいねぇ、第九師団歩兵第七連隊歩兵第三大隊――おれもその中の一人だったんだぜ、八神


 はっ、と綸子が息を呑む音が聞こえたが、駛良にはもはやどうでも良かった。


 ただ、相対する脱走兵の顔を凝視する。一度は奮戦の末に命を落とした英霊として讃えられながら、その実、帝国に叛旗を翻すべく地獄より舞い戻った悪鬼。


 この出会いは、奇しくも再会であったようだ。

 かの悪名高き尼港包囲戦を経て、全く違う道を進むことになった、二人の男の――。

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