第2章(8/12)

 妓楼〈壱葉〉は五階建てだが、その中央は吹き抜けになっていて、各階の廊下から一階の大広間を見下ろせるようになっている。


 大広間の真ん中は四畳ほどの広さの坪庭になっていて、植樹以来花を散らすことを知らないという魔性じみた桜が鎮座している。その根元には手水鉢と水琴窟が設置されており、これま たどういう仕掛けなのか、滴る水音が天井近くにまで響いてくる。


 異界、という言葉が駛良の脳裏をよぎる。もちろんこの妓楼は決して魔法の産物などではない。が、魔力とはまた異なる人の意思が、この地上に常ならぬ世界を築き上げていた。


 これもまた一つの呪術か。魔法とは術理を異にしつつも性質を同じくする、人の心を操る業。


 当然でしょう、と女の嗤う声が聞こえた。先頭を歩く伊藤のものだ。


「遊郭は枯れることを許されない常春の秘境――人の世の道理を忘れるための場所よ」


 人が、人でなく獣に戻るための空間。それはまるで戦場だと、駛良の背筋がざわつく。楼内に入る前に伊藤が綸子を窘めた際の台詞も、あながち誇張ではないのかもしれない。


 三人組の一行は、誰にも見咎められることなく、階上を目指していく。勝手知ったる風に歩を進める伊藤の後ろに、客を案内する新造といった風を装いながら、駛良と綸子が続く。というか明らかに浮いているだろう伊藤の存在を誰も気に留めないのは一体どういうことなのか。


 唯一奇異な目を向けられることがあるとすれば、駛良の襟章に対してくらいだ。しがない下士官がどうやってこれほどの高級娼館へ、という類いの視線。逆に言えば、軍服の少年が平然とその場に居合わせていても、誰も不思議には思わないということ。遠目には上級武士の子弟か何かと思われているのかもしれない。


 時折、軍の高級将校とすれ違いそうになると、面倒を避けるべく物陰に身を隠したりもしたが、それ以外は特に障害もなく、駛良たちは最上階へと辿り着いた。


 大杉栄が逗留しているのは、妓楼〈壱葉〉の中で最も豪奢だという一室――貴賓室だそうだ。

 しかし、お尋ね者の破壊活動家が滞在場所に選ぶだけのこともあって、どうやら貴賓室というわけでもなさそうだ。それはこの五階に上がってきた時点で薄々感づいていた。


「この階全体が呪術的な計算に基づいて設計されているみたいね。結界や暗示だけじゃないわ、目の錯覚を利用した視線誘導まで行われてる。まるで宝物庫よ」


 駛良の心中を代弁するように呟いたのは、やはり優れた魔導師であるのだろう綸子だ。そのまま綸子は駛良を振り向くと、


「今度は吐かないでよね」


「この程度の仕掛けで吐かねえよ」


「はいはい、お喋りはそれくらいにね。まぁ向こうも礼儀にうるさい人じゃあないけど」


 一行を先導する伊藤は、やがて廊下の中程で足を止めた。

 折しも、巨大かつ華々しい壁画の手前だった。


「竜……?」


 壁一面を覆い尽くしているのは、雷雲の中を蠢く一頭の巨竜。しかし駛良は怪訝に眉を寄せた。その竜には、片眼が描き込まれていなかったのだ。

 画竜点睛を欠く――かの有名な故事が思い起こされる。


「知ってる? 西洋の伝説では、竜が門番を務めているという話が多いの。は、それにあやかったものよ」


 言いつつ、伊藤が空白の隻眼に指を触れる。するとそこに黒い瞳が生じたかと思えば、あたかも水面に波紋の拡がるが如く、画面が一際大きく揺れる。


 そして――壁画の中の竜が、ゆるりと滑らかに、その身をくねらせた。驚きに言葉をなくす駛良と綸子。


 双眸を得た竜は訪問者たちを順繰りに睥睨し、やがて伊藤に視線を定める。二対の眼が互いを見つめ合う。両者とも全く身じろぎしない。


 果たして、先に目を反らしたのは画面の中の竜だった。故事に謳われるが如く、竜は壁画の枠外へと飛び去っていってしまう。あっ、と駛良が声を漏らす間さえなかった。


 一体何が――という疑問は、竜が消えて空白になったとばかり思っていた壁画に目を戻すと同時に氷解した。というか、既にそこに壁はなかった。

 あったのは、金銀に彩られた襖。誰に説明されずとも解る。ここが貴賓室の入り口だ。


 先ほどの竜は、これを隠すための門番だったということか。開門のための鍵になっていたのは、おそらく網膜とか光彩とかその辺り。つまりは伊藤の眼だ。


 ここに来て、ずっと駛良の中で培われていた予想が、ようやく確信に変わる。


「お待たせ。この先で、大杉は待ち受けているわ」


「ご案内ありがとうございます。――〈さん」


 駛良の言葉に、ぎょっとして振り返ったのは綸子ただ一人。伊藤は身じろぎさえしなかった。


「やっぱり気づいてたんだね。まぁ隠しているつもりもなかったけど」


「大方、聞かれていないから答えもしなかった、というところでしょう? 大杉やあんたの考えそうなことです」


 まぁね、と悪びれた様子もなく伊藤は笑う。


 思えば、ここに来るまでの道中、伊藤の姿が他の客たちに見咎められなかったのは、彼女もまた大杉と同様に禹歩を使っていたためなのだろう。環境の異質さに気を取られて、伊藤自身の魔力の動きを見落としてしまっていた。敵が相手ならば手痛い失態になるところだっだ。


 駛良は襖の引手に指を掛けたところで、これはついでですが、と伊藤を振り返る。


「あんたに〈でろり庵〉を紹介したのは、但馬陽大尉ですね?」


「そうよ。ハルにゃんを通じて、勾田軍曹――今は准尉か――彼とも二、三回くらい顔を合わせたわ。たぶんあたしが〈奇兵隊〉に通じていること、勾田准尉も見抜いていたんでしょうね」


 惜しい人たちを亡くしたわ、というその呟きは、少なくとも駛良の耳には伊藤の本心から零れ落ちたもののように聞こえた。


 それだけ聞ければ充分です、と駛良は勢い良く襖を開け放った。

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