第2章(7/12)
「さて、行くとするか」
何事もなかったかのように駛良は言った。ただし蒼褪めた顔で棒付き飴玉を咥えながら。
綸子の着替えに使われた控え室で横になっていた――駛良を気遣ってくれた新造は既に席を外している――のは、わずか数分ばかり。嘔吐きが収まったところで、駛良はのっそりと身を起こした。たくあん味の飴を舐めているのは、口の中に残る苦味をごまかすためだ。
立ち上がろうとした瞬間、軽い目眩に襲われたが、揺れ動く視界を気力で押さえ込む。噛み締めた奥歯が、がりっ、と飴玉を砕き、舌の上に小石のようなざらざらとした食感を拡げた。
ちっ、と舌打ちしながら、こめかみを伝う脂汗を軍服の袖で拭う。
駛良を突き動かしているのは、ある種の使命感だ。ここで立ち止まるわけにはいかない―― 大杉栄を捉えたこの機会を逃すわけにはいかないという、強い意志。
この程度の不調など、かつて戦場を満身創痍のままに駆け抜けたことを思えば、大した問題にはならない。昔できたことが今はできないなどという道理があって堪るものか。
「待ちなさい、八神」
――つと、少年を呼び止める声が挙がる。同僚の少女が発したものだった。
何だよ、駛良が振り返ると、綸子は両手を組み合わせて印を結んでおり、
「――オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」
涼やかな声と共に呪文が唱えられた。その声音が駛良の耳朶を叩き、鼓膜を震わせるや否や、綸子から放たれた魔力がするりと駛良の内側に入り込む。途端、荒波に弄ばれる小舟のようだった視界が瞬く間に安定を取り戻し、逆流した胃酸が喉を焼いていた痛みもたちまち消え去っていく。
平癒祈願の魔法ね、とは伊藤の呟きだ。それは戦場でも応急処置として使われるような、一般的かつ簡素な魔法。しかし患部にこうも的中させるほどの精度でこれを放てる者は、軍医や衛生兵くらいだろうに。
或いは――簡単な魔法ならば呼吸するかのように自在に操れてしまえるのが、この少女の実力だとでも言うのか。半ば確信めいた想像に、駛良は軽く身震いすることを禁じ得ない。
「どう? これで少しは楽になったでしょう?」
ふふん、と綸子が胸を張る。新造姿にはあまり似合わない仕草だが、中身が綸子だと思えば、すぐにその違和感もなくなった。同時に、彼女を相手取っての緊張も無用だと気づく。
駛良は数瞬ばかり無言で綸子を見つめていたが、
「そうだな。お前のおかげで楽になった。ありがとよ」
癪に障るのは自分の不甲斐なさであって、綸子に助けられたという事実に何ら変わりはない。
だから早々と礼を述べておく。したがって、これ以上綸子に負い目を感じる必要はない。
そんな駛良の素直さが意外だったのか、綸子は鳩が豆鉄砲を食ったような顔のまま硬直する。
魔法の腕はともかく、やはり基本的な部分では間の抜けたところばかりが目立つ少女だ。これが士官候補生――将来の幹部候補かと思うと、少し情けなくも思えてくる。
仕切り直すように、ぱん、という拍手の音が室内に響く。伊藤の打ち鳴らしたものだった。
「はい、青春の甘酸っぱい時間はお終~い。ここからは、改めて、大人のお時間」
そう言って伊藤が片眼を閉じる仕草が、妙に妖艶に写ったのは、やはり場所柄の影響だろうか。
「八神くんの調子が戻ったところで……いよいよ会いに行くとしましょうか」
誰に、とは今更言うまでもない。他ならぬ大杉栄を捜し求めて、この妓楼〈壱葉〉にまで足を運んだのだ。
ぐっ、と駛良は腰に提げた打刀を握り締める。
恐れることはない。相手が誰であろうと、己はただ――正義を全うしさえすればいい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます