第2章(6/12)

 時刻は午後八時を回ろうかという頃合い。

 夜空に浮かぶ月は、まだ半月には及ばないものの、大分肥えていた。


 星々の瞬きに見下ろされている地上の街には、夜を侵す人工の光が煌めいており。


「ここよ。ここの最上階で、大杉栄はあなたたちを待ってくれているわ」


 そう言って女は引き連れている軍服姿の少年と少女を振り返る。夜の街を彩る橙色の光に照らされた女の横顔は、まだ年若いにもかかわらず、魔性のような妖艶さを醸し出している。


「ここ、ですか」


 言いつつ、少年は眼前にそびえる建物を見上げる。その声には微かに戸惑いの色が滲んでいた。


「ここ、なの……?」


 明らかに狼狽した様子で言葉を漏らしたのは、生真面目そうな印象の少女だ。何かの間違いであって欲しい、と彼女の瞳はそう訴えながら案内人の女に縋る。


 その場所は龍敦市の郊外――山の麓に位置する辺り。そこに築かれた小さな町区の一角。

 面積こそあまり大きくはないものの、その場にうねる人々の熱気は、市の中心にある繁華街にも劣らないものがある。


 そして、三人の見上げる五階建ての塔楼には、このような屋号が掲げられている。


 ――妓楼〈壱葉いちよう〉。


 ここって、と少女が震える声を漏らす。


「ここって……売春宿じゃないのおおおおおおぉぉぉぉっ!」


 甲高い悲鳴が遊郭に木霊した。




 妓楼〈壱葉〉――龍敦市においては最も歴史ある、伝統と格式を備えた高級娼館だ。


 その佇まいは、遠目には五重塔を思わせられたが、いざ近づいてみると、木造建築の中に西洋風の煉瓦造りも取り入れられているなど、和とも洋とも付かない独特の趣を纏っていた。


 建物の外観から滲み出る高級感に違わず、その利用者層も一般庶民などでは有り得ず、資産家や高級官僚などを相手に商っているそうだ。


 たった今も、最下級の下士官に過ぎない駛良でさえ、式典などの場で遠目に見たことのある将官が、堂々たる態度で敷居を跨いでいったところだった。

 と、駛良の傍らで綸子が幻滅したような目をしながら、


「こんなところに来てまで女を抱きたいだなんて……男ってどうかしてるわ」


「…………」


 何をどう言い繕ったところで角が立ちそうなので、駛良は敢えて沈黙を貫いた。精通したばかりの新兵時代、先輩に連れられて遊郭に足を踏み入れたことがあるなどと言おうものなら、どんな目で見られてしまうか知れたものではない。


 伊藤はけらけらと笑いながら、二人を先導して塔楼の裏口へと回る。


「こっちおいで。お店の人たちとはもう話が付いているから」


 正面玄関の豪壮さとは打って変わって、裏戸は飾り気のない質素な装いだった。当然と言えば当然だが、しかしそこに魔力の気配を感じ取る。


 お、と伊藤が感心したように声を漏らした。


「ご明察。は泥棒除けの偽装ダミー。本当の入り口は、こっち」


 そう言って伊藤は、壁を覆う煉瓦の一つに触れる。おそらくは手の中に鍵となる呪符を隠し持っていたのだろう、音もなく煉瓦の配置が組み替えられ、大人一人が通るには充分な広さのある〝門〟が開かれる。


 ふん、とつまらなそうに綸子が鼻を鳴らした。


「幻術を応用した隠し扉……たかが遊女屋の分際で随分と大仰な仕掛けね」


「ここには帝国の中枢――とまでは行かないまでも、その手足になっているくらいの人たちもたくさん集まってるからねぇ。警備にもそれなりに気を遣うのよ」


 それと、と伊藤は肩越しに綸子を振り返る。深淵を孕んだ瞳が軍服の少女を見据える。


「たかが遊女屋、というのは聞き捨てならないわね。ここで暮らしている女の子たちも、日々自分を襲う過酷な運命と闘っているのよ? 武官のあなたとは、立っている戦場が違うだけ」


 おふざけの色が消えた伊藤の言葉を受け止めて、綸子は気圧されたように身じろぎする。やがて少女は、小声ながら、ごめんなさい、と短く返した。


 解ればよろしい、と伊藤は頷き、同時に常と同じの掴み所のない道化ぶりが甦る。


「じゃあせっかくだから、土橋ちゃんには一日遊女体験をしてもらおうかしら?」


「…………はひ?」


 意味が解らない、と言わんばかりに綸子は笑みを強張らせた。かと思いきや、伊藤に手を取られたまま、抵抗する間もなく、近くの部屋に放り込まれてしまう。


「後はよろしくね~」


 伊藤はそう言って、襖を閉めた。その奥から、あぎゃあ、とか、ふみゃあ、とか、にょわあ、とか、とにかく不穏極まりない綸子の叫び声が響いてくる。


 さすがに駛良も不安さを覚えるが、大丈夫よ、と伊藤が鷹揚に頷く。


「八神くんは男の子だから軍服でも問題ないんだけど……さすがに土橋ちゃんも軍服のまま店の中を彷徨かれると、さすがに悪目立ちしちゃうでしょう?だから着替えてもらっているだけ」


 はぁ、と駛良は溜息交じりに返事する。すると伊藤は、おや、と目をしばたたかせた。


「もしかして、女の子にはあんまり興味ない?」


「わざと言ってるだろ。……興味がないのは女じゃなくて土橋に、ですよ」


「ああ、なるほど。じゃあ花鶏ちゃんにご執心なわけだ」


 さらりと飛び出してきたその名前が、駛良の中ではすぐには色事とは結びつかず、だからこそ反応が遅れてしまった。


「あいつはただの幼馴染です。そりゃ、気にならないと言えば嘘になりますけど、別に男と女の関係になりたい訳でもありませんから――」


 口に出してみて、改めてその思いを確認する。正直なところ、花鶏と夫婦になるとか、もっと直裁に男女の営みをするとか、そういうことに全く想像が及ばないのだ。ただ、自分の目の届くところにさえいれば、それで良い。駛良が花鶏に期待するのは、その程度のものに過ぎない。

 

 どうだとばかりに言ってみると、伊藤は真顔でまじまじと駛良の顔を覗き込んできたかと思えば、


「…………………………うわぁ」


「〝うわぁ〟?」


「あー、うん。八神くんの言いたいことは解ったよ。というか、君がかなりの重症だということも確信できちゃった」


 ぽん、と伊藤は駛良の肩に手を置く。前々から感じていたが、こういうところで妙に距離が近い女だ。駛良が伊藤の腕を振り払うよりも早く、


「少年。これから先、君は苦労することになるだろうけど、お姉さんで良ければいつでも相談に乗ってあげるからね。恋愛大明神伊藤野枝様を侮らないでよ」


 聞き返す間さえ与えず一方的に言い置いて、伊藤は「そろそろ準備できたぁ?」と襖を開ける。気づけば、既に綸子の悲鳴は止んでいた。


「お、いい感じじゃない。もしかしたら八神くんも君のこと見直すかもよ?」


「べっ別にあいつにそんな風に思われたいわけじゃにゃ……」


 ごにょごにょと妙な会話が漏れ聞こえてくるが、先の発言然り、伊藤の言葉をまともに取り合っていたらきりがないと、駛良もそろそろ学習できてきている。


 果たして十分ほどぶりに駛良と再会した綸子は――やはり綸子だった。


「今、何か失礼なこと考えたでしょう!?」


 ぎゃおうと吼える少女は、なるほど見事なまでに遊女に化けていた。


 業界用語で言うところの〝新造〟――見習い遊女を装っているのだろう。あでやかながらもどこか可憐さを残す若草色の振り袖。結い上げられた長い黒髪は、それ自体が一つの織物であるかのよう。白粉で紙のように白く染められた肌の中、唇に引かれた朱に、ふと駛良は破瓜の血なるものを連想させられた。


 とはいえ、いくら着飾ったところで綸子が綸子であることに変わりはなく、


「…………………………うわぁ」


「〝うわぁ〟?」


「あー、いや、何つうか……お前に欲情しそうで逆に気持ち悪い。吐きそう」


 おそらく振り袖の意匠として暗示の作用がある呪術紋様などが縫い込まれているのだろう。

 普通の客ならばそこで適度な催淫効果が働いて、この遊郭における〝非日常〟に酔えたのかもしれない。


 しかしそこに来て駛良は、暗示への抵抗力を心身に刻み込まれた兵士であるばかりか、何より綸子個人に対する忌避感や嫌悪感が根強くあってしまっている。


 結果、人工的な肯定感と本能的な否定感がぶつかり合い、頭をくらくらとさせてしまっているのだ。


「あんた何言ってんの、――って、本気で吐くなぁあああああッ!」!


 綸子の着付けを担っていたのだろう本物の新造がどこからともなく盥を持ってきて、駛良の嘔吐物を受け止める。駛良を指差しながらげらげらと大笑いする伊藤に突っ込む気力さえ湧いてこない。今はただ、新造の柔らかな手が駛良の背中をさする感触だけが心地好く――。

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