第2章(5/12)
離れたところから取材風景を眺めていると、花鶏が珈琲を淹れて運んできた。
「はい、シロくん」
「応。ありがとな」
休憩中とあって他に客の姿もないため、花鶏もそのまま近くの席に腰を下ろす。
賑やかな空間を遠巻きにした、静かな一角。かといってそれが寂しいということはなく、むしろ縁側に腰掛けながら庭先ではしゃぎ回る子どもたちを眺めているような、そんな安心感にも似た落ち着きがそこにはあった。
砂糖の入っていない珈琲の苦味が、今はどこか心地好くある。
不思議だね――つと、花鶏がそんな言葉を漏らした。
「綸子ちゃんがいるだけで、場が明るくなる」
「騒がしくなる、の間違いじゃねえのか?」
「そんなことないよ。シロくんだって楽しそうだよ?」
まさか、と駛良は鼻で笑う。面倒臭さを覚えさせられこそすれ、綸子が傍にいてくれて良かったと思える機会など、今まで一度たりとも訪れたことがない。
でもさ、と花鶏は顔を綻ばせる。
「綸子ちゃんと話してる時のシロくん、何て言うか……〝お兄ちゃん〟の顔してる」
「寝言は寝て言え、バカ鶏が。あれのどこに俺の可愛い妹どもと似ているところがあるっつうんだ」
「バカ鶏言うなっ!そう言うシロくんだって充分兄バカじゃない」
「兄バカ上等だ。人は絶対不変の真理を前にして、自らの愚かさを自覚させられるのさ」
「うん、やっぱりシロくんは兄バカだね」
醒めた目をしながら花鶏は言った。哀れみさえ込められているかのような視線だった。
しかしそれも束の間、くすっ、と花鶏は微笑を零す。堪えきれない、と言わんばかりに肩を震わせている。
駛良は眉をひそめて、
「……何がおかしい」
「ううん、何だかシロくんとこんな風に話すの、久しぶりな気がして」
「そうか?」
そうだよ、と花鶏が頷くので、駛良も記憶を遡ってみる。
「考えてみれば、確かにこうして腰を据えて話をしているのは久しぶりな気がするな」
ここ数日に限らず、駛良が花鶏と話す機会は、ほとんど接客中の雑談がてらということが多かった。憲兵という職業柄、駛良の出退勤の時間は不規則であることが多く、花鶏の自由時間と噛み合うことがあまりないのだ。
「シロくんが忙しそうにしてるのは昔からだったけど、あの頃の方が、まだ余裕があったように思うよ」
「あの頃っつーと……ああ、地元での話か」
遠い目をしながら、二人は過去を思い起こしていく。舌に残る珈琲の苦味が、過ぎ去った時間の懐かしみを甦らせていく。
それは駛良が龍敦に赴任するよりも――ばかりか戦地に赴くよりも、ずっと前の話。
何も掬えないほどに手が小さく、だからこそ大きくなるばかりの志を持て余していた頃。
「そ。十年くらい前だっけ? 荒れ狂って腫れ物扱いされていたあなたが、お師匠様に叩きのめされた後とか。起き上がれなくなっちゃったシロくんの話し相手になってあげたのよね」
「余計なことまで思い出してんじゃねえ」
子どもの頃の話をされると据わりが悪くなるというのは、きっと世の男子全員が思いを同じくするところだろう。もとい子どもの時分の男子とは、どうしてかくも愚かだったのか。
「覚えてる? 用を足したいのに言い出すのが恥ずかしくなって、結局布団の上で――」
「だからそれ以上口を開くんじゃねえ縫い止めるぞコラ」
早口でまくしたてると、してやったり、とばかりに花鶏はころころと笑う。
そんな少女の無邪気な笑顔を前にすると、然しもの少年も毒気を抜かれてしまって、諦めたように笑うしかなくなるのだ。そして、不思議とそれが不愉快ということはなく――。
二人して笑っていると、ぱしゃり、という機械音と共に光が明滅した。伊藤が冷やかすような笑みを浮かべながら写真機を向けてきていた。
「あ、もう一枚いいですか~?」
「いいはずねえだろ。……何勝手に撮ってるんですか」
「珈琲片手に談笑する少年武官と看板娘。このお店の紹介記事を書くに当たって、これほど打ってつけの写真も他にないじゃない?ですよね、店長さん?」
伊藤が水を向けると、鷹寛も「そうだね」と鷹揚に頷いた。
「臣も民も隔てなく心を落ち着かせられる空間というのが、私の目指すこの店の趣向だからね。そういう意味で君たち二人は本当に絵になっているよ」
「褒め過ぎだよ、お父さん」
そう言いながら花鶏は頬を赤くし、駛良もそんな幼馴染の顔を正視できずにそっぽを向く。
と、振り向いた先では綸子が何やらまじまじと駛良を凝視しており。
何だよ、と駛良は尋ねるが、別に、と綸子の返答は素っ気ない。
「ちょっと驚いただけ。貴方でもそういう顔をすることがあるのね」
「そりゃ俺の仕事はお前に愛嬌を振り撒くことじゃねえからな」
綸子と言葉を交わした途端、一瞬で駛良の意識が切り替わる。日常用の緩んだものから、仕事用の緊張を帯びたものへと。
駛良の気配が変わったことを察したのか、花鶏もまた空になった
結果、その場には駛良と綸子、伊藤の三人だけが残された。或いは鷹寛はこうなることを見計らって、自分も席を外したのかもしれない。
入れ替わりに訪れたのは静寂。直前までの和やかな雰囲気とは打って変わって、ぴりり、と空気が引き締められる。視界の片隅で、綸子が落ち着かなさそうに身じろぎする。
その静けさを最初に破ったのは駛良だ。
「伊藤さん。言っての通りこれは取引ですよ。俺たちがあんたの取材に協力した分、今度はあんたが俺たちのために働く番だ」
駛良は、その口許こそ愛想を醸すよう緩められているが、目許は鋭く引き締められている。
殺気立つ、とまではいかないまでも、それに近いものがあるだろうとは自覚している。
しかし対峙する伊藤は、柳に風とばかりに、そんな駛良の刺々しい気配を受け流している。
ばかりか、
「ああ、うん。安心して。その件は大丈夫よ~」
まるで友人と会う約束を取り付けたかのような気楽さだった。駛良たちの目当ては、神出鬼没の破壊活動家だというのに。
女はそんな気楽さを保ったまま、
「だから今夜、あなたたちにはさっそく大杉に会ってもらうことになりました」
仲介者の発した言葉を咀嚼するまでに、一拍ほどの時間を要する。
「…………………………今夜?」
駛良の口から間の抜けた声が零れ落ちた。綸子もまた「ほえ?」と目を点にする。
「え、えと……つまり私たちはこれから大杉栄に会いに行く、ってことですか?」
「そうよ、綸子ちゃん。有名人と直接言葉を交わせるまたとない機会」
理解が追い着かない様子であわあわと綸子は駛良を振り返る。
駛良は、ふっ、と口の端を吊り上げた。軽い武者震いが走り、かちかちと腰に帯びた打刀が鍔鳴りを起こす。
「随分と仕事が早えな。見直しましたよ」
「お褒めに与り光栄ね」
逸る気持ちを落ち着かせるべく、駛良は深呼吸する。そして瞼を閉じる。
大杉栄――瞼の裏に浮かび上がるのは、雨の中に消えた背中。駛良の知る限りでは、最も勾田直実の死に近しい男。
あの場で、大杉は何と言ったのだったか。
――「せっかく拾った命じゃねえか。もっと自分の好きなように使えよ」
ああ、と駛良は内心で大杉の残影に向けて頷いてみせる。自分の好きなように使ってみせるとも。
たとえこの命に代えてでも、一連の事件の真実に辿り着いてみせよう。この〈五稜郭〉に暮らす人々の――花鶏の平穏を守り抜いてみせよう。
もう、花鶏にあのような涙は流させない。駛良は決意と共に拳を固める。
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