第2章(4/12)

「記者の伊藤野枝です。今日はよろしくお願いしま~す」


 女記者の明るい声と共に、ぱしゃぱしゃ、という写真機の作動音が店内に響く。


 時刻は午後四時。昼の営業を終えて、夜の営業用の仕込みも一段落する頃合いに、駛良たち 一行は洋風茶屋〈でろり庵〉を訪れていた。


 取材許可は、思いのほかすぐに下りた。即答で快諾されたくらいだ。


「すいませんね、おやっさん。急に無理を言っちゃって」


「構わないよ。駛良くんの紹介なら、私としては大歓迎だ」


 そう言って微笑んだのは、品の良い口髭を蓄えた紳士風の男だ。

 男の名は豊田鷹寛たかひろ。洋風茶屋〈でろり庵〉の店主にして、下宿屋〈昼晴荘〉の大家。つまりは花鶏の父親でもある。


 鷹寛の傍らでは、彼の娘もまた、ふふっ、と満更でもなさそうに笑みを零す。


「シロくんがうちのお店を記者さんに紹介してくれるだなんて嬉しいな。何だかんだ言って、このお店のこと気に入ってくれてるんだね」


「……別にそんなじゃねえよ」


 素直に認めるのは気恥ずかしく、思わず唇を尖らせてしまう駛良。しかし花鶏は気を悪くする風もなくしたり顔で頷いている。それがまた面白くなくもあり。


 私は反対だったんだけどね、と女記者の挙動をつぶさに観察しているのは綸子だ。


「あの人、何か怪しいわよ。腹に一物どころか二物や三物もありそうじゃない」


「そうなんだ? でもまぁ、このお店に来る人ってみんなそんなんだよ」


 あっさりと言ってのける花鶏に、綸子は鼻白んだ様子だった。


 当の伊藤は、一通り店内の撮影を終えると、今度は鷹寛自身の取材へと移る。

 紙面の都合上、型通りの質問が多くなる、とは事前に話していた通りだ。


「店長さんはどうして〈五稜郭〉の中でお店を開くことに?」


「私は料理人である以前に志願兵でしてね。我々のような平民出身者は、平時は予備役編入されているので、その間の兼業をと思いましたところ……ちょうどこの〈五稜郭〉で簡単な料理 店を開いて欲しいという要望があることを聞きつけまして」


「なるほどぉ。……あれ? ですが〈でろり庵〉は開店されてからもうすぐ二十年くらいになりますよね?ということは――」

「ええ。私が初めて出征したのは一九〇四綾綺三十七年の秦国戦――大戦後いまで言うところの第一次大陸戦線でした。旅順へと赴きましたよ」


 旅順に、と伊藤は目を丸くする。その事実は駛良にとっても初耳だった。


 旅順攻囲戦――伝え聞く限りでは西洋の戦争研究史でも取り上げられることがあるという、

 文字通り歴史に残る大激戦だ。八洲軍は約五万名という兵力でこれに臨んだが、その三割に当たるおよそ一万五千名もの将兵が命を落とすことになった。


 不意に花鶏が駛良の軍服の裾を引っ張ったかと思いきや、小声で尋ねてくる。


「〝りょじゅん〟ってどこだっけ?」


「遼東半島――高麗半島のすぐ上の突き出た部分の、西の端だ」


「戦争中にシロくんもいたところ?」


「俺が居たのはシベリアの端っこ。方角が真逆だ」


 敢えて曖昧な言い方をしたのは、綸子が聞き耳を立てていることに気づいたからだ。下手に具体的な地名を出せば、いつかのように騒がしくなるかもしれない。


 無意識に駛良の手が腰に差した打刀へと伸びた。刀を提げる剣帯を弄びがてら、脳裏に甦ろうとする戦場の記憶を封殺する。


 半ば無理遣り意識を取材中の二人組に戻すと、いよいよ鷹寛の料理が振る舞われる段になったようだった。心なし伊藤の目がいそいそと輝いているようにも見える。


「この店には、何でも他では食べられない名物があるのだとか?」


「ええ。と言っても、私自身、以前に帝都の屋台で一度食べたことがあるものを自分なりに再現してみたものなのですが――」


 言いつつ鷹寛が用意したのは、一杯の丼物だ。


 鷹寛が蓋を開くと、ふわりと白い湯気が立ち上り、その奥から鬱金色の煮込みと草鞋型の揚げ物が姿を現す。伊藤の口許から、わぁ、と静かな歓声が漏れた。

 絡み合った香辛料と油の匂いが鼻孔をくすぐり、ぐぅ、と腹の虫を鳴かせてみせる。誰が鳴らしたものかは、敢えて触れないのが礼儀というものだろう。


 鷹寛は穏やかに笑みながら、


「こちら、当店自慢の《担ガレ丼》になります。丼飯の上に陸軍でお馴染みの豚カツを載せて海軍名物のカレーを掛けたものです」


「思わぬところで陸海共同作戦が行われていますね!ちなみに《担ガレ丼》という名前は― ―」


「ええ、豚カツとカレーを掛け合わせた流れで生まれた駄洒落です。娘が閃いたものでして」


「お父さん!余計なこと言わないで!」


 花鶏が顔を真っ赤にして叫んだ。さすが花鶏だな、と駛良が呟くと、どうしてこういう時に限って〝バカ鶏〟って言わないのッ、とこれまた花鶏に怒られた。


 じゅるり、と涎を啜る音がしたかと思えば、綸子が目を皿のようにしながら、口許を軍服の袖で拭っていた。袖釦に引っ掻かれるのも構わずにだ。


 と、鷹寛が子どもたち三人を振り返って、片眼を閉じる。


「小鉢だけど、君たちの分もとりわけしておいたよ。良かったらお食べ」


 あざぁすっ、と我先に掛けだしたのは綸子だ。普段の気取った態度はどこへやら、物珍しく、かつ美味しそうな料理を前に目の色が変わってしまっている。


「綸子ちゃん、熱いから気を付けて」


「元からなかった貫禄が今や完全に消え失せているぜ、――って聞いちゃいねえな」


「頂きますッ! んーぅ、おいひい! さくさくとした衣の感触、その中で待ち受けているのは獣脂ジュウシィな肉汁、そこにカレーの辛味が肩を組んできて、舌の上には仄かな甘味にも似た宇宙が花を開かせているの――」


「本職顔負けの実況力だわ……この台詞、そのまま記事にしちゃおうかしら」


「良い食べっぷりだね、土橋くん。美味しく食べてくれるお客様はいつでも大歓迎だよ」


 と、いつの間にか伊藤は自分に出された丼さえ綸子に差し出しては、綸子の漏らす感想を手帳に書き留めている。そんな取材方法で大丈夫なのかと駛良は思ったが、本人たちは満足しているようなので、横槍を入れるのはやめておいた。


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