第2章(3/12)

 立ち話も何だから、という理由で、三人は駅の待合室に場所を移した。

 伊藤には近くの喫茶店に誘われたのだが、記者からの利益供与は軍規に反するという理由で 駛良と綸子は固辞した。


「で、一体どこから俺の顔と名前を嗅ぎつけたんです」


 口の中でたくあん味の棒付き飴玉を転がしながら、駛良は尋ねる。


「君、特捜班の副班長じゃない。その程度の常識も知らない記者なんてモグリよ」


「常識とまで言うか」


 別に非公開の人事ではないとはいえ、何やら複雑な気分だ。

 苦い顔をする駛良を、ねぇ、と綸子が小突いてきて、小声で囁く。


「この人、どういう記者さんなの?貴方の知り合い?」


「新聞くらい読めよ。今朝の《日刊新時代》にも書いてただろうが」


「に、《日刊新時代》は大衆紙でしょう!? 私は信頼の置ける高級紙しか読まないのよっ!」


「……そうか。大体解った」


《光文新聞》や《帝都日報》などといった高級紙にもよく寄稿していると指摘してやるのは、かえって酷だろうと判断して止めた。


 ともあれ、伊藤野枝という記者は、要するに〝何でも書く〟女だ。大真面目に体制批判を展開するかと思いきや、今朝の叛乱云々の記事のように面白半分の陰謀論を唱えたり、はたまた社会問題とはまるで関係ない娯楽記事を書いていることもある。


 つまり、ここで駛良たちに声を掛けてきた真意が全く掴めない相手ということでもある。

 駛良たちが但馬や勾田について調べていることを嗅ぎつけてきた上で接触してきた可能性もあれば、本当に駛良と綸子の諍いを痴話喧嘩だと思って首を突っ込んできただけかもしれない。


 訝しげな表情を浮かべる駛良と綸子を前に、伊藤は童女のようにあどけない笑みを浮かべながら、


「そんなに警戒しないでよ。あたしはただ君たちと取引できればいいなぁと思っただけだからさ。対等の、ね」


「取引?何の件かは知りませんが、公式発表以上のことは話せませんよ?」


「あー、別に情報の横流しをお願いするつもりはないよ。むしろ君たちにあたしを監視して欲しいって感じ」


 ますます意味が解らない。既に憲兵隊に目を付けられていることくらい、この聡明な記者が気づいていないはずがないとも思うのだが。


「つまり、あたしに案内して欲しいんだ。〈五稜郭〉の中をね」


「軍事機密に触れる気満々じゃないのっ!」


 がおうと吼えたのは綸子だ。大きな声に驚いた他の客たちが綸子を振り向く。注目を一身に集めた綸子は、かあっと赤面しながら俯いた。このまま静かになってくれるとありがたい。


 伊藤は他人事のようにくすくすと笑いながら、


「どうしてそう極端に捉えちゃうかなぁ。〈五稜郭〉の中には一般公開されている箇所もあるでしょう?あたしが用があるのは、そういうところ」


「なら、所定の手続きを踏めば入れるじゃないですか」


「その所定の手続きを踏むのが面倒だから、こうして紹介を頼んでるの。……本当は知り合いに頼みたかったんだけどね」


 成る程、と駛良はようやく伊藤の意図を理解して頷いた。


 たとえ後ろめたい事情がないとしても、軍属でさえない平民が〈五稜郭〉の検問所を通るためには、事前に申請書を提出した上で通行証を発行してもらう必要があるなど、そこそこ手間 が掛かる。しかし駛良たちのような〈五稜郭〉に籍を置く者らが「この人も連れだ」と一言口添えすれば、すぐに済む話でもあったりする。後者の方が手っ取り早いのは明らかだ。


「ですが、どうしてそうまでして〈五稜郭〉の中に入る必要があるんです?」


「知らない? 最近、料理系の雑誌では軍隊料理がちょっと注目されているのよ。その流れで、要塞の中にある食堂とかにも注目が集まっていて。それで、〈五稜郭〉内にあるお店の紹介記事を書いて欲しいっていう執筆依頼があったのよ」


 聞いた話では〈でろり庵〉っていうお店がいい感じらしくて、と伊藤が手帳をめくりながら言う。


「…………」


 これ以上は関わると面倒になりそうだと判断して、敢えて駛良は沈黙を選んだのだが、しかし急ごしらえの同僚はまだそこまで空気を読んではくれなかった。


「それ、八神が下宿しているところのお店でしょう? ちょうどいいじゃない、案内してあげなさいよ」


「本当? それはあたしとしても好都合だなぁ」


 伊藤が期待するような眼差しを向けてくる。しかし気乗りしない駛良は、さっと目を反らす。


 決して〈でろり庵〉を他人に紹介したくないわけではない。ただ、あの場所に〝仕事〟を持ち込むことに抵抗があるのだ。花鶏の前では、所属も階級も関係ない、ただの八神駛良でありたいというか。


 そんな内心を伊藤に悟られないよう、駛良は目を伏せながら言う。


「けど、俺たちだって別に暇というわけでは――」


「八神くん。あたしは記者なの。この意味、解る?」


 伊藤の伸ばした白魚のような人差し指が駛良の唇を塞ぐ。はっと顔を上げる駛良。咄嗟に反応する間もないほどに、ごく自然な仕草だった。


「顔の広さには結構自信があるのよね。例えば、君のお父上――八神俊成大佐とも懇意にさせてもらっているわ」


「どうせ、一方的に付き纏っているだけでしょう」


 自分の父親ほど癒着という言葉とは縁遠そうな人間もそう居まいと、伊藤の腕を払い除けながら駛良は言い返す。伊藤は涼しい顔のまま、


「物は言い様ね」


「そうとしか言わねえ。……第一、軍の中堅と繋がっているからって、俺たちに何の得があるって言うんですか。憲兵もそこそこ隊内では顔を利かせやすいんですよ?」


「あら。誰も、軍としか繋がっていない、とは言っていないわよ?」


 と、そこで伊藤は口許を妖しげに綻ばせた。ぞくり、と駛良は肌が粟立つのを感じる。

 果たして女の朱唇から紡ぎ出された名前は、


。憲兵であるあなたたちにとっては、その居所とかにも興味があるのではなくて?」

 

「……ッ!」


 伊藤がその名前を出したのが、偶然だったのか必然だったのかは解らない。駛良は努めて無表情を装う――ものの、はっと息を呑んでしまうのは抑えられなかった。綸子が驚きのあまり言葉もない様子だったのは、不幸中の幸いと言えるかもしれない。下手に言質を取られるよりはずっと良い。


 内心の動揺を悟られないよう、密かに呼吸を整えた上で、改めて駛良は口を開く。


「大物の名前を出して釣ろうだなんて、その手には乗りませんよ。第一、対等の取引と言うには、条件が釣り合っていないんじゃないですか?」


「そこは心配ないわ。あたしはただ、君たちにその気があるのなら大杉に話を通してあげるというだけ。実際に会うかどうかは、あの人の決めることよ」


 ほう、と駛良は半眼で頷く。片や綸子の方は、信用ならないとばかりに唇を尖らせている。


 二人の反応を楽しむように伊藤は目許を和ませる。まるで悪戯を仕掛けたばかりの童女のような表情だ。


「もう少し手頃な物件なら、確実に紹介できるとも思うけどね」


 物件て、と綸子が呆れたような声を漏らす。


「正直、私は貴女の話を信じられませ――」


「伊藤さん。あんたの話、ちょっと信じてみる気になりましたよ」


「八神!?」


 悲鳴を上げる綸子は黙殺して、駛良は伊藤の目を見据える。半ば虚勢ながら口の端を不敵に吊り上げる。


 もう逡巡はしない。利用できるものは何でも利用する。それもまた駛良の生き方だ。


「いいでしょう。〈でろり庵〉でもどこでも案内しますよ。ただし、その代わり――あんたには大杉栄との面会の約束を取り付けてもらいたい」


「確約はできないかなぁ?」


「してもらえなければ、伊藤さんが二度と記事を書けないよう手を回すだけですよ」


 はったりだ。最下級の下士官に過ぎない駛良にそれだけの権力はない。尤も、仮にそのような真似ができたところで、あっさり筆を折る伊藤ではないだろうが。


「うーん、確かにそれは困るわね」


 額面とは裏腹に面白がっているような口振りだった。にやにやと値踏みするような目をしながら口許を笑みの形に歪めている。もしかすると駛良の嘘は見抜かれているのかもしれない。


 流れに取り残された綸子が固唾を呑んで見守る中、たっぷりと溜めを作った伊藤は、わざとらしいくらいにゆっくりと紅唇を持ち上げる。


 つうっ、と冷たい汗が駛良のこめかみを滴り落ちる。


 やがて女は言った。


「その条件、呑んであげるわ」


「交渉成立ですね」


 伊藤が手を差し出してくるので、駛良もそれを受け取って握手する。綸子だけは一人釈然としない様子で、伊藤に笑いかけられても、ふん、とそっぽを向いていた。


「じゃあ俺は、ひとまず向こうの都合を確認してきますよ。電報を打ちますので、そうですね ――」


 言いつつ、待合室の壁掛け時計を見やる。時刻はやがて九時を回ろうかという頃合い。


「一時間後にまたこの場所に集合ということで」


「解ったわ。あたしも大杉に話を通さないといけないものね」


「よろしくお願いしますよ?」


 もちろん、と伊藤は気負いのない笑顔を見せた。


 そのまま先んじて立ち去っていく伊藤の背中を見送ると、


「どうしてあんな女を信用できるのよ? 八神」


 訝しげに尋ねてくる綸子に、駛良は涼しい顔で言葉を返す。


「憲兵の勘、かな」


「……はぁ?」


「素で呆れるなよ。冗談に決まってるだろ」


 けれども信じるに足る根拠――というか、もしかしたらという疑念のようなものがあることは事実だ。確信はないまでも、一縷の望みを託すくらいには充分なほどに。


「よしんば掛かった魚が小さかろうが、釣り落とすよりかはマシだ」


「私もとんだ泥舟に乗せられたものね」


 勝手に言ってろ、と言い置いて、駛良は駅舎内にある公衆電信機を求めて歩き出した。

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