第2章 天狗が道化に惑わされる話
第2章(1/12)
三月二十三日。陽射しは柔らかく、今にも春の足音が聞こえてきそうな、そんな朝だった。
が、爽快な空模様に反比例するかのように、駛良の顔はどんよりと曇っていた。
というのも、一連の事件の捜査が難航しているためだ。はっきり言って、昨日までに何の手 がかりも得られていなかった。
景気づけに今日の朝食はたくあん丼を注文したのだが、思いのほか箸が進まない。
気を紛らわせようと朝刊――法螺や噂話の多い大衆紙――を開いてみれば、こちらでも情報が解禁されたばかりの暗殺未遂事件について取り扱われていた。〝陸軍が武力叛乱を目論んで いる兆候だ〟などと根も葉もない論説には苦笑する気にさえなれない。
「ったく、誰が書いたんだ、こんな与太話。……ああ、
その筋では有名――というか、要注意人物として憲兵隊の監視対象にもされている記者だった。
眉間に刻まれる皺の数が更に増えたところで、お茶を運んできた花鶏に苦言を呈される。
「シロくん、朝からそんな不機嫌な顔するのやめようよ?」
「うるせえぞバカ鶏……」
反射的に叩いた憎まれ口にも、我ながら力が入っていない。花鶏からもいつものような威勢の良い返しは飛んでこず、更に調子が狂わされてしまう。
だからこそ、駛良は気づいた。少女の笑顔が微かに翳っていることに。
「そう言うお前こそ、実は元気ねえだろ」
すかさず指摘してやると、花鶏ははっと息を呑んだ。一瞬口許を不自然に歪ませたのは、誤魔化そうとしたためか。しかしすぐに諦めた様子で、しゅんとした表情を見せた。
「聞いたよ。勾田さんと陽さん、二人とも亡くなったんだってね」
「……もう知ってたのか」
勾田の葬儀は昨夜に行われたばかりだ。親族や屯所内の関係者だけで密やかに行われたのだ
が、洋風茶屋の店員という職業柄、花鶏の耳に届くのも早かったに違いない。
花鶏の顔を曇らせている原因に得心が行きつつ、駛良は不意に違和感を覚えた。
勾田は駛良の直属の上司ということもあって、花鶏もその存在を見知っている。が、それはそれとして、もう片方のことを、妙な呼び方をしなかっただろうか。
「……陽さん? お前、もしかして但馬大尉のこと知ってるのか?」
「もしかしても何も、二人とも〈
「独りでに納得するな、順を追って説明しろ。ほら、たくあん一枚やるから」
要らないよ、と花鶏は呆れ顔で笑う。冗談のつもりはなかったのだが、花鶏の気を紛らわすことができたのであれば、それはそれで重畳だ。
「ええと、シロくんはどこまで知ってるの?二人の関係」
「あの二人に接点があったこと自体、たった今、初めて知った」
「あー、やっぱりそうなんだ。そうなんだよね。わたしもいちおう口止めされてたし」
「おいおい……一体全体何だって言うんだ」
駛良は引きつった笑みを浮かべる。こめかみを冷たい汗が伝い、心臓が早鐘を打つ。
花鶏には絶対に言いたくないが、捜査が行き詰まっている現状、この際何でもいいから新しい情報が欲しいのだ。
ここ数日は遺品整理も兼ねて勾田の私物を精査していたのだが、事件の手がかりになりそうなものはまるで得られなかった。勾田が死を遂げる直前に何をどこまで調べていたのかは、未だに不明のままだ。
これは但馬に関しても同様であり。いや、むしろ但馬の方は、まるで自分の死を予定していたかのように、任務外――私生活の痕跡が綺麗に抹消されていた。だから駛良は今や、暗殺未遂事件そのものに対しても疑いの目を抱いている。但馬は追い詰められて自決したのではなく て、そうすることこそが自身の目的だったのではないか、と。
――「貴官が〝正義〟を全うされんことを」
まるで駛良の信念を見透かしたような、その台詞の真意とは。
ええとね、と花鶏は周囲を気にするかのように駛良に顔を寄せる。
迫る少女の柔肌に少しだけ動悸が速まるが、きっと事件の手がかりを得られそうな予感に興奮しているだけに違いないと自分に言い聞かせる。
「お付き合いしてたの、あの二人」
あまりにも簡潔明瞭な表現だったため、かえって意味を受け取り損ねた。
「勾田准尉と但馬大尉が何だって?」
「准尉? 勾田さんって軍曹じゃなかった?」
「殉職扱いだから二階級特進したんだ。……で、勾田准尉と但馬大尉が付き合ってたって、それはつまり男女の交際的な話か?」
「〝的な〟も何も、男女交際そのものよ。もうじき結婚することも視野に入れてるとも言ってたかな」
花鶏によれば、勾田と但馬はよく夜の〈でろり庵〉で逢い引きしていたらしい。軍曹と大尉という大きな階級差でさえ、二人の間では垣根にすらなっていなかったようだ。
道理で、と駛良は生前の勾田が但馬事件を血眼になって捜査していた理由を察する。そして ――但馬の死を防げなかった駛良に恨み言一つ漏らさなかったのは、憲兵に奉職する者としての覚悟の為せる業だったのだろうか。
「……逆恨みされる覚悟くらい、こっちだって持ってるっつうの」
改めて駛良は思う。勾田はやはり尊敬に値する上司だったと。身分の差や階級の上下など関係なく、彼個人の人格に自然と
「素敵なね、二人、だったんだけどな」
悼むように花鶏は目を伏せる。つう、と流れた一筋の雫を、駛良は人差し指で受け止める。
「まぁ、なんだ。たくあんでも食って元気出せ」
「だから要らないってば」
どうやら駛良と花鶏の間には永遠に埋まりそうにない溝があるようだ。
「でも、ありがとう。ちょっとは元気出たよ」
そう言って花鶏は、今度は屈託のない笑顔を見せた。そのまま他の客に呼ばれて去って行く背中を見送ると、駛良は改めて目の前のたくあん丼と向かい合う。
「さて……俺も頑張るとするか」
しゃきっ、と黄金色の扇を囓る。気恥ずかしいので本人には内緒にしているが、やはり花鶏の漬けたたくあんが一番旨いと、駛良は常々思っているのだった。
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