第1章(11/11)
駛良が報告書を書くべく屯所に戻ると、勾田から電報が届いていた。午後七時に倉庫街へ来いとのお達しだった。
「倉庫街、ね……」
思わず苦い顔になってしまったのは、まだ一昨日の出来事が記憶に新しいからだ。
そこは但馬陽が自決した現場だ。追い詰められた襲撃犯が切羽詰まってあってはならない行動に出るということは度々起こるとは駛良も聞いていた。しかし自分自身がその現場に居合わせてしまうのは、決して気持ちの良いものではない。
とはいえ、今日一日ずっと別行動を取っていた勾田が、電報を使ってまで呼び出してくるからには、それ相応にのっぴきならない事情があるに違いない。
時計を見やれば、時刻は間もなく午後六時半を回ろうという頃合いだった。倉庫街まで行くとなると、もう屯所を出ないと間に合わない頃合いだ。
そう思いつつ、自分の格好を見下ろす駛良。市中での演説会に行ったその足で屯所に戻ってきたため、まだ私服姿のままなのだ。勾田はその辺りにもうるさい男だが、着替えていたら約束の時間には到底間に合いそうにないため、このまま行くことにする。
特殊捜査班の事務室を出ると、廊下で綸子と行き合った。駛良を見る綸子の目には些か敵意に似たものがあったが、それでも最低限の礼儀として敬礼は欠かさない。駛良もまた返礼して、特に言葉を交わすことなくすれ違う。
今は勾田の下に急ぐべきだ。そう思って駛良は、足早に軍道を歩いた。
そう、急いだつもりだった。 ――だのに。
なぜ自分は今、と駛良は胸中で己に対して問いかける。
ぽつり、ぽつり、と空から雫が落ちてくる。ざ、ざざ、と次第にその勢いが増していく。 ――なぜ自分は今、こうして地面に横たわる勾田の姿を見ているのだろうか。
蒼褪めた表情で、少年は唇をわなわなと震わせる。
「勾田……軍曹?」
倉庫街の片隅で、勾田は頭から血を流して仰向けに倒れていた。まるで高いところから墜落したかのよう。慌てて駆け寄ろうとする駛良は、しかし思わぬ声に制された。
「よせ。そいつはもう事切れている」
弾かれたように振り返ると、倉庫の物陰に華美な格好をした男が佇んでいた。金と赤の衣装に、紅白に染め抜かれた櫂。傾奇者と称されるその風体は、大杉栄のものに他ならず。
死した憲兵と、その場に居合わせる破壊活動家。
短絡的かもしれないが、導き出される結論は一つだ。
「大杉ィ……ッ!」
激昂、そして疾走。驟雨の中を小さな天狗が躍る。
間の悪いことに腰に打刀を帯びていない。が、懐中に短刀がある。それを素早く取り出して抜刀――と同時、鞘を思い切り大杉に投げつける。
大杉は一瞬不意を突かれた様子で瞠目したが、それでもすんでのところで腕を振って、飛んでくる鞘を払い除ける。しかし駛良とてそれくらいは織り込み済みだ。大杉が鞘に気を取られていた間に一気に距離を詰めている。
が、大杉も今度は驚いた様子を見せなかった。
「無駄だ。らしくもねえ……今のおまえは隙だらけだぞ」
渾身の勢いで放った刺突は、しかし大杉の二本の指に阻まれていた。まるで彫像のようにぴくりとも動かない。くっ、と駛良は地面を踏み締める足に力を込めるが、雨に濡れた地面では踏ん張りが利かない。とはいえ、それを差し引いても、やはり凄まじきは大杉の握力だ。
ならば、と駛良は即座に短刀を手放す。そのまま横合いに跳び、大杉の側面を目掛けて回し蹴りを仕掛ける。
しかし大杉の目はつまらなげに駛良の動きを追っていた。
「無駄だって言ったろ。感情任せに技を打ってんじゃねえ」
駛良の蹴撃に対処するべく、大杉は指に短刀を挟んだ手をそのまま迎撃に向かわせる。
と、駛良の足は短刀を蹴り飛ばした。ぬ、と目を見開く大杉。
足技を受けた短刀はその柄を破砕させるが、むろん込められた勢いはその程度に留まらず、抜き身の刃が大杉の指を擦り抜けて彼の顔面へと飛び掛かる。
咄嗟に首を傾げる大杉。刹那の後、走り抜けた白刃がその浅黒い頬に朱色の一線を引いた。
「……へぇ」
大杉は薄い笑みを浮かべながら、蹲る駛良を見下ろした。駛良もまた獲物を狙う山猫のような目で大杉を見上げる。
視覚では大杉の姿を捉えながらも、痛覚では負傷の度合いを確認する。というのも、下駄履きの足で短刀を蹴り飛ばしたため、足の指に罅が入ってしまったようなのだ。
だが、と駛良は牙を剥くように歯を食い縛る。たとえ刺し違えてでも勾田の命を奪った仇敵を討たなければならない。
屈んだ状態から、撥条の要領で体を跳ねさせて、大杉に殴り掛かる。
「よせよせ。今のおまえじゃおれには敵わねえよ」
少年は感情の激発に任せて拳を振り回すが、悉く躱されてしまう。大杉はまるで手の掛かる子をあやすような目で駛良の一挙手一投足を見守っている。
やがて――櫂を携えている方の腕が初めて動く。自分が相手を打ち抜くことばかりに気を取られていた駛良は、反応が遅れてしまう。
時間にすれば、わずか瞬き一つのことだっただろう。
が、二人の間では、それが致命的なまでの差を生んでいた。
翻った櫂は駛良の横腹を打ち据え、ばかりかそのまま掬われるように駛良の体が宙に浮き、鉄槌を振り下ろすが如く、地面に叩きつけられる。
かはっ、と咳き込んだ口許からは赤い血が溢れた。内臓を痛めつけてしまったようだ。駛良の理性を裏切って本能的に治癒魔法が働き、瞬く間に魔力を消耗していく。
「ま、ざっとこんなもんだろ」
櫂を肩に立て掛けながら、大杉は踵を返す。待て、と駛良はその背中に呼びかける。
しかし大杉は振り返ることなく、
「待たねえよ。魔法の力で傷は癒えるだろうが、体力や魔力はごっそり持ってかれちまってるだろ。なら、何度やっても結果は同じだ」
「ふざけんなっ! また俺だけがのうのうと生き延びろってのか!?」
駛良は気力を振り絞って身を起こす。無意識に悲痛さの込められた声で大杉の耳朶を打つ。
大杉は肩越しに振り返ると、
「そうだよ」
と、何の迷いもなく頷いた。
「せっかく拾った命じゃねえか。もっと自分の好きなように使えよ」
掴み取りてえものがあるなら顔を洗って出直しな、と嘯いて大杉は去って行った。いつでも掛かってこいと言わんばかりの、隙だらけの背中を見せながら。
「ふざ、けんなよ――」
視界が滲むのは、きっと降り注ぐ雨の水滴が目に入った所為だ。
体が動かないのは、きっと雨に濡れた着物が重い所為だ。
畜生、と絶叫する。雨音を遮るほどの大声が倉庫街に響き渡る。
指の骨が砕ける勢いで地面を殴りつけると、赤々とした血がまるで涙のように流れた。
◆
「八神駛良憲兵伍長。貴官を特殊捜査班班長代行に任命する。精励して職務に励んでおくれ」
「拝命致しました、甘粕大尉」
勾田直実軍曹の死は、〈五稜郭〉に大きな動揺を走らせた。
旅団長暗殺未遂事件――延いては但馬陽大尉の自決――に引き続き、今度はその事件を捜査していた憲兵が不審死を遂げた。この二つの出来事が無関係だと考える方が無理があるというものだろう。
連日で分隊長執務室に呼び出されている駛良は、執務机の前に綸子と並び立ちながら、甘粕の言葉に耳を傾ける。
「八神、それに土橋。君たち二人には、一連の事件の捜査に専念してもらいたいと思う」
上官の言葉に軽く驚きの声を漏らしたのは綸子だ。
「出向者に過ぎない私が、このような重大事件の捜査に携わるのですか?」
「ああ。八神にも助手は必要だろうからね」
「俺は単独でも問題ないつもりですが」
「――とか何とか言っている輩に限って早死にするんだよ。
御意に、と綸子は敬礼した。駛良もまた目線で甘粕に促されて、渋々敬礼して了承の意を示 す。
「解っているだろうね?八神。この暗殺未遂事件、どうやら但馬大尉が一人で暴発したなどという単純な話ではなさそうだよ?」
「解ってますよ。この命に代えてでも、絶対に真相を掴み取って見せますよ」
淡々とした駛良の言葉に、甘粕は何やら物言いたげに眉宇を寄せたが、しかしその唇が開かれることはなかった。
話が終わったところで、駛良は綸子を引き連れて退室する。
廊下を足早に歩き出すと、背後から綸子の声が追ってくる。
「妙な雲行きになってきたわね」
「今日の空は快晴だけどな」
窓から覗く空は、嵐が過ぎ去った後の静けさを湛えていた。
世界はいつも、こんな風に穏やかに狂っている。
正しさも間違いも全部引っくるめた混沌に色を付けるならば、きっとこの空のように澄み切った青色が似合うに違いない。
或いは、世界とは人の意などでは推し量れない大海のようなものなのかもしれない。そこで
人はきっと、その海に漕ぎ出す無力な小舟に過ぎないのだろう。
だからこそ――小舟なりの意地としてそれは人の手で為されなければならないのだ。
「それで……これからどうするつもりなの?」
決まってるだろ、と駛良の返事は素っ気ない。
「俺はただ――正義を全うするだけだ」
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