第1章(10/11)
時刻は間もなく午後七時を迎えようとしていた。
〈五稜郭〉は南東部第四区――倉庫街の一角にて。勾田は電報で呼び出した駛良を待っていた。
無人の通路の中央に仁王立ちしながら、勾田は懐に収められたものの重さに思いを馳せる。
但馬陽の足跡を追っていた勾田がそれを見つけたのは、きっと偶然ではない。彼が見つけることを見越して隠されていたものだろう。
それは黒革張りの一冊の手帳――但馬陽の手記だった。
手帳の中には、暗殺未遂事件を引き起こした但馬陽の真意が全て書き記されていた。勾田にも否応なしに彼女の想いが理解できてしまった。
張り詰めていた自身の緊張を解くべく、ふぅ、と息を吐き出した勾田は、そのまま瞑目する。
脳裏には幾多もの思考が行き交い、胸の奥では
自分が為すべきは、不満を暴力に訴えることなどではない。もっと大切な使命を託された。
瞼の裏側に浮かび上がるのは、勾田もよく知る一人の少年の姿であり。
「どうやらお前を頼るしかないみたいだな、――八神駛良」
不器用というか器用貧乏というか、要領は良いのだが間は悪いというか、とにかくそういう風に垢抜けきれない男。その性格や性質が難儀して、色々と苦労していることだろう。
けれども勾田は知っている。あの少年を突き動かすものが〝正義〟に他ならないことを。
いっそ危うささえ覚えてしまうほどに、彼が公正義勇の権化であることを。
不意に苦笑が零れ落ちる。武家士族と言えど、まだ成年にさえ達していない十七の子どもに重責を負わせようとしている自分は、一体何様であるのか。
平民という己の生まれを悔いたことはないし、貴族階級に対して引け目を感じたこともない。
だが、覚悟の違いといった風なものは、もしかしたらあるのかもしれない。貴族の家に生まれたがゆえに生き方を選べない彼らと、何者でもないからこそ自由に生きられる自分たちと。
「ま、今こうして同じ班と上司と部下をやっているのも何かの縁だ……今度、飯でも奢ってやるかな」
そうやって、ふと気を抜いた――その瞬間だった。
何の前触れもなく、足下の地面が崩れ落ちたのは。
己の身が底なしの奈落へと落下していくのを、勾田は錯覚した。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。勾田が霞んだ目で見上げた空は、既に夜の帳が下ろされていた。分厚い雲に遮られているのか、星明かりさえ見えない、そんな暗闇の世界。
既に全身の感覚が麻痺している。ふわふわと宙に浮いているような気分。疾うの昔に墜落したはずなのに。それとも既に魂と肉体が離れてしまっているのだろうか。
渾身の力を込めてみると、かろうじて腕が動いた。それと共に、ほんの微かに痛みが甦ってくる。ああ、どうやら自分はまだ死んでいないようだ。
僥倖だ、と勾田は微かに頬を震わせた。無意識に笑おうとして失敗した結果だ。
あらん限りの力を振り絞り、胸元に手を伸ばす。詰襟の中に柔らかくも分厚い感触があることを確認して安堵する。但馬陽の手帳は無事のようだ。
それも束の間、からんころん、と慌ただしい足音が近づいてきて、勾田は微かに身構える。
果たして足音の主は、
「お、おいおいおい……どうしたんだよ、ナオミちゃん!」
ある意味この状況では一番会いたくない人物だった。ちっ、と勾田は舌打ちする。よりにもよって自分の最期を看取ることになるのが奇天烈な格好をした怪人だとは。
「おまえがどんなこと考えてるか大体想像付くけどよ、今はそれどころじゃねえだろ! しっかりしろ、おれがすぐに助けを呼んできてやる」
傾奇者の破壊活動家――大杉栄は血相を変えていた。本気で勾田の身を案じているようだ。
まったく、と勾田は苦々しい気分になる。憲兵の立場として、この男に信用を置くことはできない。けれども、人間としてならば――不思議と信頼できてしまう。
だから、懸けてみることにした。
「待、て……」
今にも消え入りそうな声だったが、大杉の耳にはきちんと届いたようだ。大杉が振り返ったことを確認してから、勾田は胸元の手帳をぎゅっと握り締める。
「これ……八神……届……」
勾田の手に、大杉の手が重ねられる。思いのほか熱い掌だった。その心根の温度と比例しているのだろうか。
「皆まで言うな。確かにおれが預かった。だからおまえは――」
その先を、勾田が聞き取ることはなかった。
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