第1章(9/11)
龍敦市公会堂は、龍敦市の中心部に位置している。赤煉瓦に白い石をあしらった意匠は、近年流行の辰野式建築とやらを取り入れているのだろう。要は名匠の二番煎じのような建物だ。
とはいえ天候に左右されることなく人々を集められる場所というのは貴重で、演説家やその聴衆たちからは概ね好評だという話も聞く。
そして今日もまた、比較的年若な論客が口角泡を飛ばす勢いで熱弁を振るっている。
[私は伺いたい! 先の長きに亘る大戦――その果てに何を得られたというのか? 何を取り零してしまったというのか!? あの勝者なき大戦に意味はあったのかッ!]
拡声器から紡ぎ出されるのは、強い憤りに彩られた言葉の群れだった。
世界規模の大戦争という人類史にも残る大事を経て、巷間では反戦だの軍縮だのといった論調が好評を博しているらしい。然もありなん、多くの若者が戦地に送られてはその命を散らし、戦争が終わってなお戦費を賄うための重税が臣民の生活を苦しめている。
だからこそこうして、帝国のあり方そのものに異を唱える不穏分子が増えつつあった。
[ゆえに我々は語り継がねばなりません。応天九年五月二十四日を――かの
論客の煽動に、聴衆たちもまた、わっ――、と歓声を沸かせる。
尼港包囲戦とは、大陸はシベリアの軍港都市
交戦規定を歯牙にも掛けず、軍人はおろか地域住民たちも無差別に巻き込み、挙げ句の果て一都市を丸ごと廃墟と化させたという敵軍の悪逆は、所属陣営を問わず数多の諸国家の非難を招いた。ばかりか帝国内でも指揮官の采配が槍玉に挙げられてしまったくらいだ。
そして現在、その惨劇は反戦を訴える論客たちにとっては格好の材料とされているのであり。
[私は望むッ。戦火の中に消えた同胞たちの然るべき慰霊を! 戦火を拡げた悪しき指導者たちに然るべき断罪をッ!]
集会場の熱狂が天井知らずに昂ぶっていく中――駛良は、ふぁあ、と欠伸交じりに演説に耳を傾けていた。実際、取るに足らないものだからだ。
論客の操る言葉こそ過激だが、しかし具体性は伴っていない。誰もが知っている事実を、思っている感情を、それらしく並び立てているだけに過ぎない。公会堂の中でこそ盛り上がっているものの、喉元を過ぎれば熱さを忘れてしまう程度のものだろう。
ひとまず当面の脅威には成り得そうにない、と駛良が冷静に判断するその傍ら、
[立ち上がりましょう! 声を上げましょう! 剣を捨て、筆を執りましょう! 剣戟や銃火でなく言葉をこそ交えるべきなので――]
「ふ、ざけん、な――――ッ!」
駛良の真横から、拡声された論客の演説を遮るほどにに大きな声が上がった。ぎょっとして振り向いた駛良はそこに見た。額に青筋を浮かび上がらせながら、高らかに拳を掲げる綸子の姿を。
少女の不意打ちを受けて、場内を沈黙が支配する。その隙を逃さず、綸子は声を高らかに謳う。
「剣を捨てる? 筆を執る? 何を莫迦なことを言ってるの! そんなことでは国を守ることなんでできないわよ! 筆は剣よりも弱いの! 人の悪意を食い止められるのは結局のところ ――先頭に立つ肉の壁に他ならないのよ!!」
綸子の言葉が浸透するにつれて、さざ波のようなどよめきが訪れる。壇上の論客もまた戸惑っている様子だが、しかし軽く咳払いすると、
[し、しかし……悪意に悪意で応えれば、それは悪意の連鎖を招くばかりで――]
「帝国軍人の献身を悪意だと言うの!? それこそ戦場にて命を散らした同胞たちを冒涜する物言いよ!」
[な、何だと……? 貴様、一体何のつもりで私の演説を邪魔する!]
「なんでもなにも――」
「土橋、そこまでだ」
「なっ!? 止めないでよ! 私は帝国軍人として――」
「だからそれをやめろっつってんだ」
駛良は綸子の腕を引きながら会場を後にする。背後で論客が[逃げるのか!?]などと喚いているのは一顧だにせず、公会堂自体から離れて市中の喧噪に紛れ込む。
ここまで来れば安全か、と駛良の握力が緩められた途端、綸子は勢い良くその手を振り払った。
少女はその双眸にどこか昏い情熱を滾らせながら、じっと少年を射貫く。
「なぜ私を止めたの? 八神」
駛良はそんな綸子の視線に全く物怖じせず、淡々と唇を動かす。
「土橋。俺たちの目的はあの論客の監視だ。反駁することじゃねえ」
「けど……ッ!」
「それが俺たちに課せられていた任務だ。解るか、土橋?お前は今、職務に背いたんだ」
駛良が諭すように言うと、綸子ははっと息を呑んだ。ようやく自分のしでかした間違いの意味に気づいたらしい。
くっ、と歯噛みしながら目を反らす綸子。やがて少女の唇から零れ落ちたのは、
「八神……私には、貴方のことがよく解らない」
そんな言葉だった。唐突に発せられた綸子の物言いに、駛良は怪訝な表情を浮かべる。
綸子は、きっ、と駛良を見上げると、
「異国で散った英霊たちが、あのように貶められるのをただ黙って見過ごせと? 士族の誇りを蔑ろにするような物言いをする者たちを野放しにしろと!?」
「そうだ。国を守るというのは、そういうことだ」
それが武家士族として生まれついた者たちの宿命だ。形ばかりの敬意と形なき悪意の狭間に置かれながら、誰に感謝されるわけでもなく、国家鎮護の任に身を捧げる。
民衆の物言いにどれだけ反発を覚えようとも、それが皇帝の意向に反し、威光を侵すものでない限り、粛々と聞き流さなければならないのである。
駛良は感情を押し殺したまま淡々と説き伏せる。次第に俯いていった綸子の頭の旋毛が目に留まる。
と、その頭がふるふると震える。おかしいわ、と綸子は声をも震わせる。
「八神の言っていることはおかしいわ! 私たちは人間よ! 国家を回す歯車なんかじゃない!!」
「声を抑えろ、土橋。目立つだろう」
実際、通行人たちが驚いてこちらを振り返っている。駛良たちと目が合いそうになると、そそくさと立ち去っていくが。
しかし綸子は構うことなく依然として駛良に噛み付く。
「憲兵は軍の
「…………」
醒めた目で見上げてくる少女を、少年はただ静かに見下ろしているだけだった。
いちいち面倒臭ぇ女だなぁ、とは心の中で思うだけに留めておく。火に油を注ぎかねない。
代わりに、重い溜息が零れ落ちた。
「意思がない、だって? そいつはとんだ誤解だな」
そう言って駛良は口許を笑みの形に歪める。さながら牙を剥く狼のように。
「俺は俺自身の〝正義〟に従って生きているだけだ。何だかんだで憲兵を続けてるのも、今のところそいつに
「せ、せいぎ……?」
綸子は訳が解らないという顔で戸惑いの声を漏らす。
ああ、と頷いた駛良は、懐からたくあん味の棒付き飴玉を取り出して、口に咥える。
「今日のところは解散だ、土橋伍長。そろそろ雨が降ってきそうな頃合いだし、てめぇはそのまま頭でも冷やしてろ」
了解、という声は風の音に紛れそうなほどにか細かった。
ふん、と鼻を鳴らして、駛良は踵を返す。雑踏の中に立ち尽くす綸子を気配だけで捉えながら、しかし彼女とは違う道を歩いて行く。
「ったく、これから先、あいつと組んでやっていかねえとならねえのかよ」
短い間とはいえ、憂鬱な時間になりそうな予感しかしない。口の中に、たくあん飴の苦味がじんわりと拡がっていた――。
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