第1章(8/11)

 昼頃になると、空を覆う雲は更に黒々と存在感を増させていた。

 やがて一雨来るかもしれない。城外に出る時は傘を持っていく必要がありそうだ。


「〈でろり庵〉……変わった名前のお店ですね」


「おやっさん――店主が考えた〝洋風〟の名前らしいぜ。どんな意味かは知らねえけど」


 そう、と頷く綸子の態度は素っ気ない。特殊捜査班事務室に仕掛けられた様々な罠から自分の身を守ってくれなかったと、すっかり臍を曲げてしまっているのだ。駛良にしてみれば、綸子の自業自得だとしか言いようがないのだが。


「第一ね、これは貴方がどうしても奢りたいって言うから、奢らせてあげるんですよ? くれぐれも勘違いしないで下さいね」


「元はと言えば、お前が財布を忘れさえしなけりゃ、こんな面倒臭い話にもならなかったんだがな」


 屯所から歩くこと十分ほど。駛良と綸子の姿は、城内の北西部第六区にあった。


 第六区には〈でろり庵〉以外にも下士官向けの飲食店がいくつか軒を連ねているため、昼時はそれなりに人々の往来が多くなる。

 軍道を往来する人々の多さに、綸子は軽く驚いているようだった。


「普段からこんなに人が居るんだ――」


「〈五稜郭〉の総職員数は、予備役軍人も含めれば、六千人は下らねえはずだ。軍人以外にもその家族だったり、雑役を担う軍属だったりもいるからな」


「軍属……平民なのにわざわざ軍に関わる人もいるものね」


「そりゃ志願兵だって似たようなものだろ。〈でろり庵〉のおやっさんも平民出身ながら結構な数の戦場を渡り歩いてきたって話だぜ。戦争が終わった今は予備役に入ってるけどな」


いくさ〟は武家士族の専売特許とはいえ、近代化に伴って巨大化した帝国軍の総員を士族だけで固めるのは土台不可能な話だ。だから平民から志願兵を募ることで頭数を揃えるということが行われている。


〈でろり庵〉店主のように、平民出身者は戦争のない平時には予備役投入されやすいのだが、それでも〈五稜郭〉内に平時用の〝兼業〟を持っている予備役軍人たちは、有事には即座に召集を掛けられるような精兵ばかりだろう。決して軽んじられるような存在ではない。


 洋風茶屋の樫扉を開けると、店内もまた思いのほか賑わっていた。駛良は普段、屯所内の食堂で昼食を済ませてしまうことが多いため、この時間帯の〈でろり庵〉に来店するのはこれが初めてだ。


 花鶏は女連れで来店した駛良を目にしても、一度大きく瞬きしただけで、後は他の客たちと何ら分け隔てしない態度で彼らを出迎えた。


「いらっしゃいませ。お二人様でよろしいですか?」


 ああ、と駛良が頷きつつ、素早く掲示板に並んだ品書きに目を走らせると、


「日替わり定食を二つな」


「あ、私はとんかつ定食の方が――」


「差額は自分で出せよ。俺はびた一文払わねえからな」


「む……日替わり定食でいいです」


 そんな二人のやり取りを、花鶏は珍しいものを見るような目で見守っていたが、


「日替わり定食を二つ、ですね。承りました。空いている席でお待ち下さい」


「あ、ちょい待ち」


 そのまま去ろうとする花鶏を呼び止める駛良。


「後で時間取れるか?お前に頼みてえことがあるんだ」


 すると花鶏は、一瞬きょとんとした顔になったかと思えば、営業用の愛想笑いと共に、


「申し訳ありません、当店ではそのような営業は行っておりませんので――」


「誰がてめぇなんざに酌を頼むか。鏡を見てから物を言えよ、バカ鶏」


「バカ鶏言うなっ!」


 花鶏の声が店内に大きく響き渡る。何事かと客たちに一斉に振り向かれて、束の間駛良と花鶏は注目を集めてしまう。


「もう……後で覚えておきなさいよ、シロくん」


 赤面した花鶏は俯きながら言うと、駛良を軽く小突いてから今度こそ足早に去って行った。

 自然、残された駛良が客たちの視線を一挙に引き受けることになってしまう。


 と、小声で不満を漏らしたのは綸子だ。


「八神伍長の所為で私まで注目を集めちゃってるじゃないの」


「なぁ、これって俺が悪いのか?」


「女が怒る時はいつも男が悪いと、前に二室戸中尉が仰っていたわ。真理だと思います」


「あの狐目、んなこと言うのかよ。あとお前もどうしてそんな暴論を崇めているんだ」


 視線を避けるように、駛良と綸子は奥まった席を確保する。

 ややあって花鶏が水を持ってきたのだが、綸子にこそ笑顔を向けながらも、駛良には睨むような一瞥を置いていった。最近花鶏を怒らせてばかりだな、と駛良は軽く首を竦めた。


 やがて運ばれてきた日替わり定食――今日の主菜は牛肉のコロッケだった――を手早く片付け、食後の珈琲をのんびりと味わいながら、店が一段落するのを待つ。


 やがて混雑時が過ぎ去ったところで、ようやく花鶏が駛良たちの元へやって来た。


「はぁ、今日も忙しかったなぁ。誰かさんは来ちゃうし」


「客に対して随分な態度だな」


「シロくんは正直お客って気がしないもの。――っと、こちらの方は初めてでしたっけ」


 花鶏が綸子に顔を向けて居住まいを正すと、綸子もまた座ったまま敬礼する。


「士官候補生の土橋綸子伍長です。今は不本意ながら八神伍長の下に付かせてもらっています」


「……不本意なんだ?」


 花鶏はちらりと駛良の顔を窺うも、すぐに綸子に視線を戻して、胸に手を当てて返礼する。

 こうした作法を心得ている辺りは、やはり予備役軍人を父に持つ娘だ。


「わたしは豊田花鶏です。このお店の娘で、シロくんの……まぁお姉さん役ってところかな」


「出来の悪い姉を演じているつもりだったのか。初めて知ったぞ」


 ごつん、と花鶏の拳骨が飛んできた。全く痛くないとはいえ、駛良の不意を打てる辺りは密かに脅威だと思っていることは、本人には内緒だ。


 花鶏は額に薄く青筋を立てながらも、綸子の手前、愛想笑いを浮かべながら、


「それで……わたしに用事があるって言うのは?」


「ああ。そのことなんだが、お前に着物を一着貸して欲しくてさ」


 すると花鶏は駛良を見つめたまま目をしばたたかせる。


「……シロくんが着るの?」


「どこからそういう発想が湧いてくるんだ」


「八神伍長なら似合いそうな気もしまけどね。猫目っぽい部分も、化粧で誤魔化せる

と思うわよ」

 

 ここぞとばかりに綸子が口を挟んでくる。

 そして何を想像したのか、花鶏もまた、ぱぁっと顔を輝かせた。


「あ、それ面白そう。今度やってみない、シロくん?」


「断固拒否する。土橋伍長も悪乗りしてんじゃねえ」


 苦い顔をする駛良だったが、花鶏と綸子が意気投合してくれているところにはひとまず安心できた。花鶏とて気の合わない相手に自分の着物を貸すことは抵抗があっただろうから。


 綸子の相手を花鶏に任せると、駛良も自室に戻って私服へと着替える。

 詰襟の上着と軍袴を脱ぎ、代わりに縹色の小袖と鼠色の馬騎袴ズボンに手足を通す。さながら書生を思わせる装いは、如何にも社会運動家の集会に顔を出す若者といった風体だ。


 ただ、仕事の都合上、打刀を置いていかなければならないところが非常に心許ない。帯刀は武家士族だけに認められた特権であるため、これを持ち歩いていようものなら、即座に正体を見破られてしまう。


 仕方ないので、駛良は懐中に短刀を忍ばせる。潜入任務の際はいつもこうしている。打刀とは全く取り回しが異なるとはいえ、やはりないよりはあった方が何かと便利だ。


 気分を紛らわしがてら、たくあん味の棒付き飴玉を咥えながら、再び〈でろり庵〉に降りて綸子たちを待っていると、程なくして二人の少女たちもやって来た。


 綸子の衣装――鴇色の銘仙には、駛良も見覚えがあった。というか花鶏のお気に入りのものだったはずだ。


「良かったのか?」


 駛良の言葉は端的だったが、花鶏はすぐに意味を察したようで、朗らかに笑う。


「いいんだよ。これが一番綸子ちゃんに似合っているもの」


 そうか、と駛良は口許を緩める。そうだよ、と花鶏は笑みを深める。


「刮目して見なさい、八神伍長。着物に袖を通すのは久々だったんだけど、やっぱりこちらの方が気分が落ち着くわね」


「そりゃ軍服のまま気分を緩められるのは、憲兵としてはあまり褒められないからな。普段からしゃんとしてくれているなら助かるよ、土橋伍長」


 と、そこで駛良ははたと気づいた。服装を誤魔化したところで、お互いを階級で呼び合っていては意味がない。


「ふうん、貴方にしては良い目の付け所ね。それで、私はどのように呼べばいいの?」


「好きにしろ……いや、〝シロくん〟とは呼ぶなよ?」


 ちっ、と舌打ちが聞こえたような気がしたのだが、空耳だったのだろうか。


「なら、八神、と遠慮なく呼び捨てにさせてもらうわ」


「嬉々として言いやがって。あと、ついでにそのたまに使う敬語も今からは完全に引っ込めろ。娑婆で使うには不自然だ」


 加えて言えば、階級上は駛良と綸子は同格なのだから、必要以上にかしこまることもないだろう。部下として上司の命令にさえ従ってくれるのならば、それで充分だ。


「たまに? おかしいわね、私なりにちゃんと貴方を立てていたつもりなのだけど……」


 言いつつ、考え込むように俯く綸子の仕草は、妙に目を惹くものがあった。着物姿で見てくれの女らしさが増した分、本来の素材の持ち味が活かされ出したというか。これはこれで別の意味で周囲の注目を集めてしまいそうだが、元が美人なのだから、致し方あるまい。


「さて、これ以上長居するのもお店に悪いし、俺らは一旦外に出るぞ」


「そうね。花鶏ちゃん、またお邪魔させてもらうわ」


「うん。いつでも遊びに来て。楽しみに待ってる。……と、シロくん、ちょっと待って」

 扉に手を掛けたところだった駛良が振り返ると、花鶏はすっと手を伸ばしてきて、駛良の被っている学生帽の角度を調節する。


「ちょっとズレてた。――うん、これで良し」


「……ッ、こ、これくらい自分で直せるっつうの」


「ああっまたそんな風にいじる! ……もう、人がせっかく直してあげたのに」!?


 歩いてりゃ自然にズレるものなんだよ、と駛良は口を窄めながら言う。

 へぇ、と綸子は意外なものを見る目つきで、綸子が駛良と花鶏のやり取りを見守っていた。


「貴方にもそういう関係の相手が居たんだ。世も末ね」


「いや、絶対お前は何かを誤解してる。つーか世も末って何だ、世も末って」


「ごめん……わたしは綸子ちゃんたちが何を想像してるのか全然解らない」


「お前が鈍いのは今に始まったことじゃねえから気にするな、バカ鶏」


「バカ鶏言うなっ!」


 かくして潜入任務の準備は整った。

 目指すは龍敦市公会堂――〈五稜郭〉の城外である龍敦市中だ。

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