第1章(7/11)

「随分奥まった場所にあるんですね、特捜班の事務室って」


「昔は物置として使われていた部屋が宛がわれているらしいからな」

 棒付き飴玉を咥えたまま答える駛良。たくあん味の飴を目にした時の綸子は、まるで世界の終わりを目撃したかのような顔をしたが、この筆舌に尽くしがたい口福に比べれば些細な問題だ。


「ほら、ここだ」


〝特殊捜査班事務室〟という標札が掲げられた部屋の前で、駛良は足を止めた。扉に手を掛け ると、鍵は掛かっていなかったようで、すんなりと開いた。勝手知ったる駛良はずんずんと進んでいく。


 事務室の広さは十二畳ほど。中央に大きな事務机が五つ陣取り、壁際ではいくつもの書類棚がひしめき合っているとあって、少し手狭な印象を受ける。実際、捜査資料やら班員たちの私物やらが所構わず散らばっていて、まるで森の中の獣道を思わせる。


 新しい職場を前に、さすがの綸子も緊張したのか、微かに息を呑むような気配があった。しかし表面上は平静を装いながら、駛良の後に続いて入室してくる。


「失礼します!本日付で特殊捜査班に配属に……あれ?誰も居ないじゃない」


「みたいだな。別に珍しいことじゃねえよ。待機を命じられてでもいない限り、みんな好き勝手にやっているからな」


 勾田は事件の捜査だろうし、他の班員たちにせよ訓練を兼ねて体を動かしているのだろう。

 駛良が壁際の帽子掛けコートラックに外套と軍帽を掛けると、綸子もそれに倣う。


「そこの左端の席がちょうど空いているから、滞在中は自由に使ってくれ」


 言いつつ、その斜向かいに位置している自分の席に腰を落ち着ける駛良。机の上には文房具や書類など細々としたものが多いが、多少なりには整頓されている。


「お気遣いどうも。ところで――」


 綸子は雑然とした室内を見回したが、やがて諦めたように首を横に振ると、


「八神伍長たち特殊捜査班というのは、普段は何をしていらっしゃるのですか?」


 綸子から値踏みするような視線を向けてくる。駛良は薄い笑みでそれを受け止めた。


「そう言うあんたはどこまで俺たちの仕事を理解しているんだ?」


「大したことは。いちおう憲兵隊内の実戦専門部隊だという風には聞いています」


 綸子の言葉は概ね正しい。駛良たち特殊捜査班が〝特殊〟である理由は、純粋な捜査能力よりも有事に際しての制圧能力に重きを置いていることにある。だから通常の捜査活動や警備活動に駆り出されることはあまりなく――要するに普段は暇なのだった。


「〝普段は暇〟って……駄目じゃないですか。私たちの俸給は臣民の血税で賄われているんですよ?」


「だからどうした。戦争中は寝る間もないくらい忙しかったんだ、今くらい楽してたって罰は当たるまい。……


 従軍は武家士族に課せられた義務だ。公家華族が文官として国家に奉仕しなければならないのと同様に。貴族階級には、職にあぶれて食いはぐれることがない代わりに、職業選択の自由 など最初から与えられていないのだ。


〝戦争〟という言葉に、綸子は一瞬鼻白んだ様子だったが、すぐに気を取り直したようで、


「だからって怠けてもいい理由にはならないでしょう。八神伍長、貴方にはそれでも武士としての誇りはあるんですか?」


「今時つまんねえ矜持なんざ犬も喰わねえよ。……憲兵みてえな軍の走狗イヌなら尚更な」


 へっ、と卑屈な笑みを浮かべる駛良に、綸子は釈然としないといった顔をする。

 なら――、と少女の少年を見据える心なし視線は鋭い。


「貴方は、何のためにその腰に帯びた刀を抜くの?」


 刀を抜く理由。今更問われるまでもないと、駛良は遠くを見るように目を細める。


「そいつは――」


 しかし駛良の口から言葉が紡がれるよりも早く、出入り口の扉が叩かれる音が室内に響く。


 開いてます、と駛良が声を掛けると、屯所内の庶務掛を務める若い女性兵士が書類袋を片手に入ってきた。彼女は平民出身の志願兵だったな、という思考が働いたのは、直前までの会話の名残だろう。


 女性兵士は、駛良と綸子の間で空気が張り詰めていることに気づいてか、びくりと肩を縮こまらせたが、すぐに表情を引き締めると、


「甘粕大尉からの通達です。〝本日一六〇〇ヒトロクマルマル時、龍敦市公会堂にて開かれる集会を監視せよ〟 ――以上です」


「拝命しました。お疲れ様です」


 命令書を置いて女性兵士が退室すると、綸子が駛良を振り返った。


「午後四時から、集会の監視?」


「戦争が終わってからこっち、徒党を組んで良からぬことを企む手合いが増えているからな……そういうのの芽はさっさと摘み取っておくに越したことはねえだろ」


 つまるところ、反体制運動の監視だ。これまた憲兵としてはお定まりの仕事だったりする。


 ついでに、と駛良は命令書を掲げる。


「さっきの話の続き……つーかまとめだが、自分の信念なり動機なりが何であれ、軍人として上官の命令に従う原則に変わりはねえ。違うか?」


 違わないですね、と綸子は唇を尖らせながらも頷いた。話を誤魔化されようで不満なのかもしれないが、駛良としても素面に戻ったところから改めて話を再開するには気恥ずかしさを拭 えない。


 と、そこではたと駛良は気づいて、綸子に尋ねる。


「土橋。あんた、私服は持ってるのか?」


「私服?お生憎様、私は士官候補生の間、余計なものは持たないと自分を戒めているの」


 意味もなく胸を張る綸子に、やっぱりか、と駛良は苦い顔をする。

 士官候補生ともなれば休日も軍服の着用が義務づけられている。なので私用の普段着が必要になる機会はほぼ皆無とさえ言えるくらいだ。


 が、それは憲兵科としては大変都合の悪い話であり。


「男装させる、ってのも無理があるわな」


 小憎らしくも元の素材自体は悪くないので、たぶん似合わないということはない。しかし男装の麗人というのは、それはそれで周囲の目を惹いてしまうため、潜入任務には不向きだ。


「ちょっと……さっきから邪な視線を感じるんだけど」


「他意はねえよ。改めて見てみると美人だなと思っただけさ」


 だからこそ扱いづらいのだが、と駛良は厄介者を見るように目を細める。


「にゃっ!? お、おだてたって何も出ないわよ」


「…………」


 うわぁ、と今度は醒めた目で綸子を見やる駛良。こうも簡単に調子に乗られるのは、かえって扱いづらい。


「別に褒めてねえんだが。……仕方ない、あいつに借りるか」


 脳裏に思い浮かべたのは、洋風茶屋〈でろり庵〉の看板娘だ。とりあえず昼飯がてら店に顔を出せばいいだろう。


 その旨を綸子に伝えると、綸子は「い、いきなり食事に誘うとか何様なの!?」とこれまた面倒臭い勘違いをしていた。誰かこの役を代わってくれないだろうか。


「つーわけで、昼間では自由行動な。そこの机の上は好きにしてもいいが、他のところには絶対に触るなよ」


 下手をすれば不審者対策の呪詛を踏み抜きかねない――と駛良が警告した矢先、隣の机に置いてあった文庫本に手を伸ばした綸子が、本の中から飛び出した大きな蟇蛙ひきがえるに悲鳴を上げた。

 

「そーら、言わんこっちゃねえ」


 幻術仕掛けの蟇蛙はすぐに姿を消したが、椅子ごと引っ繰り返った綸子はそれもまた呪詛の所為だと騒ぐ。この少女は本当に士官候補生なのだろうか、と駛良は眉根を寄せる。


 ともあれ午前中は、そうやって特に何事もないままに過ぎていった。

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