第1章(6/11)

 翌日――三月二十日の朝。空はぼんやりとした薄曇りだった。


 それが不吉の予兆だったというわけでもないだろうが、憲兵分隊屯所に出勤するなり、駛良は分隊長の執務室に呼び出された。


 もちろん用件に心当たりはない。昨日でさえ、勾田と別れた後、自室に戻って寝台に横になりながら、一人で今後の捜査方針を考え続けていたくらいに、駛良は熱心に仕事していたのだ。


 したがって訓戒の類いを受ける謂われはない――はずだ。


 駛良は執務室の前で軍帽と外套を脱ぎ、軍服の襟を正す。そして扉を軽く叩くこと三回。

 返事はすぐにあった。


「お入り」


「失礼します」


 断りを入れてから入室する。後ろめたいことはないとはいえ、やはり軽い緊張は禁じ得ない。


 執務室の広さは学校の教室の半分ほど。手前に応接用のソファとテーブルが並び、その奥に分隊長の座する執務机がある。駛良はソファに腰掛ける先客の姿を認め、軽く訝しさを覚えつつも、まずは自隊の指揮官に敬礼する。


「特殊捜査班副班長、八神駛良憲兵伍長。ただ今出頭致しました」


「おはようさん。急に呼び出して悪かったねぇ」


 柔らかな口調とは裏腹に、にこりともせず、龍敦憲兵分隊長――あまかすまさひこは言った。


 灰色狼、という形容が似合う男だ。年齢は三十代前半と記憶しているが、にもかかわらず、刈り込まれた短髪は既に白く、また肌の色も薄い。瞳の色さえ灰色がかっている。まるでその身から色素が抜け落ちてしまったかのよう。

 その俳優めいた端麗な顔立ちとも相俟って、一見すると線の細い優男という印象を与えそうだが、しかし左眼を覆う黒革の眼帯の存在感が瞬時にそれを裏切る。今は黒檀の執務机の陰に隠れている左脚もまた金属製かつ機械仕掛けの義足だということも、隊内では有名な話だ。


 甘粕は革張りの高級椅子から立ち上がると、杖を突きながらも、危なげない足取りでソファの傍に歩み寄る。と、そこに腰掛けていた人物――ちょうど昨日出会ったばかりの少女もまた、すっと腰を上げた。


 説明を求める駛良の視線に応じて、甘粕が小さく頷いた。


「お前さんも既に知っていると思うが、改めて紹介するよ。彼女は士官候補生の土橋だ。今日付で、龍敦憲兵分隊うちで預かることになった」


「本日付で龍敦憲兵分隊特殊捜査班に配属になりました、士官候補生の土橋綸子通信兵伍長です。よろしくお願いします」


 少女は澄まし顔かつ澱みない口調で言い切り、さっと丁寧な敬礼を披露する。

 状況が呑み込めていない駛良もまた反射的に返礼する。相手が誰であれ、そうすることは最 低限の礼儀でもある。

 互いに手を下ろし、かつ徐々に頭の理解が追い着いてきたところで、


「……いや、おかしいでしょう。どうして近衛旅団で隊附実習中の士官候補生が憲兵隊に出向してくるんですか」


 しかも所属は駛良と同じ特殊捜査班だという。如何なる星の巡り合わせなのか。

 駛良は甘粕に尋ねたつもりだったが、先に口を開いたのは綸子だ。


「敢えて他の兵科に出向して見聞を広めるというのは、真崎少将――旅団長のご意向でもあります。混乱する旅団の中で右往左往しているよりも得るものがあるだろう、とも仰っておられました」


 そうなんですか、と視線だけで甘粕に確認を取る。無言のまま首肯する甘粕からは、無表情ながらも諦観の念が読み取れた。


 そんな男たちの心境を知ってか知らずか、綸子はどこか期待するような笑顔で甘粕に尋ねる。


「それで、私がご指導を賜る特殊捜査班の方は、どちらにいらっしゃるんすか?」


「ああ……彼だよ。八神駛良伍長だ」


 一拍ほどの間、沈黙が執務室の中を支配した。

 やや遅れて、男女二人分の声が重なる。


「「………………え?」」


 駛良と綸子のものだった。続いて互いの顔を見合わせる二人。自分の表情は解らないが、綸子は笑顔のまま頬を引きつらせていた。


 こほん、と駛良は気を取り直すように小さく咳払いすると、


「ええと……もう一度よろしいですか、甘粕大尉。誰が何ですって?」


 甘粕は表情はおろか声の調子さえ全く変えないままに言う。


「お前さんが土橋伍長の教育係だよ。短い間とはいえ、良くしてやりな」


 今度は聞き違えようもなかった。大尉殿もまたつまらない諧謔を弄される、という小粋な返しを思いついたが、実際に口に出す度胸はなかった。


「にゃっ!?」


 そんな素っ頓狂な声は、綸子の口から漏れたものだった。先ほどからずっと猫を被っていたようだったが、今この瞬間、蒼褪めた表情と共にそれが崩れ去ったところだった。


「あ、あああ甘粕大尉殿?どうしても彼と組まなければならないんですの?」


 ついでに口調までおかしくなっているが、そんな綸子の変化を甘粕は一顧だにする様子もな い。ともかく、と甘粕は杖で床を一度打ち鳴らす。


「これはもう決めたことだよ。――ほら、返事はどうしたんだい?」


 了解しました、と駛良は苦々しくも即答した。部隊指揮官がそう決めた以上、現場の雑用係 に過ぎない駛良程度に口出しできる余地などない。元より上官の命令には服従するのが軍隊の鉄則だ。

 ややあって、綸子も諦めた様子で「了解です」と端的に返す。


 よろしい、と甘粕が頷いたのを見計らって、駛良は「ちなみに――」と改めて口を開く。


「この場に勾田軍曹がいらっしゃらないのは、どのような理由で?」


「彼は別用で手が離せなくてね。だからお前さんに頼むことにしたのさ」


「そーゆうことですか」


 駛良は軽く首を竦めた。勾田の〝別用〟とは、大方昨日に引き続いての暗殺未遂事件の捜査なのだろうが、何となく押し付けられてしまったような気分になることも否めない。


「話はそれだけかい?なら、まずは土橋伍長を特捜班の事務室にもで案内してやりな。二人で取り組む初任務は追って知らせるからね」

 

暗黙に退室を促されては、逆らうわけにもいかない。駛良と綸子は上官に敬礼すると、執務室を後にした。

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